第22話 銃声の先へ
一ヶ月後、ヒカルは先輩と十和田に向かっていた。
集中講義に秋の学会の準備、その他、二週間留守にしたツケのせいでこの一ヶ月は多忙を極めた。
ずっと気になっていたことがある。
結局、ワーム・ホールはどうなったのだろうか。
ヒカルや硬貨は、原因だったのか、現象の結果だったのか。
車のバッテリーが上がっているのに気づいてレッカーが来るまでの半日、ヒカルはずっと瞰湖台にいた。ずっと湖面を見ていたが、ワーム・ホールはおろか、霧の予兆すらなかった。
このまま二度と開かないのか、だんだん減少していくのか、あるいは増加していくのか。
願望はある。ワーム・ホールはもう閉じ、二度と開いてほしくない。
世界を滅ぼすほどの災いが起きるというイシュタルの神話が、どの程度事実を反映しているかはわからない。
黒海周辺の洪水が、地上を覆い尽くすノアの大洪水として語られるようになったように、局所的な災害の記憶が大げさに語られているだけかもしれない。
でも、アシェリアは本気でそれを信じていた。彼女のためには、もう開いて欲しくはない。
しかし願望にすがって現実から目を背けるのは、科学者のすることではない。
まずはワーム・ホールの実態を知る必要がある。
そのための準備と時間は用意した。ランドクルーザーの後部座席には登山用の45リットルと60リットルのザックが一つずつ。中には一週間分の食料にテントに寝袋。サーチライトにポータブル電源もある。
ちなみにこのランドクルーザーは先輩の車だ。
あまり詳しくは教えてもらっていないが、先輩は得意のプログラミングで組んだアルゴリズムで、短期の株取引を繰り返して、莫大な利益を上げているらしい。
「先輩。結局、先輩は平行世界ってあると思います?」
ハンドルを握っているヒカルは尋ねる。
「理論的にはあり得ます。量子力学の多世界解釈や、超弦理論では別の宇宙が存在していても、おかしくないですから」
「その世界がこの地球とそっくりってことは?」
「多世界解釈が本当なら、ありえるけど……」
先輩は言葉を濁す。
量子的な世界では、事象は重なり合った状態で存在する。人間が観測することによって事象は収縮し、結果が生まれる。
一方、多世界解釈では事象は収束せず、重ね合わせの状態から、世界は二つに分岐したと解く。
シュレーディンガーが箱に入れた猫は、片方の世界では生き残り、もう一つの世界では死ぬ。今この瞬間も、似て非なる無数の世界が生まれているのだ。
「でも、多世界解釈では、互いの世界はお互いを観測も干渉できないんです」と先輩は言った。
「もし干渉できたら、どうなるんです?」
「起きないことを考えてもしょうがないけど。宇宙が崩壊します。たぶん」
いつの日か二つの世界は交わるだろう。やがて世界は一つになる。そのとき、大いなる災いが起こる。
アシェリアの声が蘇る。
十和田ICで高速を降り、一般道に入ったところで異変に気づく。
道路標識が告げている。
『十和田湖周辺、火山活動により立入り規制』
二人は顔を見合わせる。
十和田火山は活火山ではあるが、近年は活動記録がなく、気象庁の噴火警戒レベルもずっと最低の1だったはずだ。
先輩が助手席でスマートフォンで検索する。
「噴火警戒レベルが2になってる。国道103号線は走行注意。中山半島と御倉半島は火山ガス発生により立入禁止。場所、わかりますか?」
「十和田湖の南側です。中山半島と御倉半島に囲まれて、5千4百年前に山体が崩壊してできた中湖カルデラがあります。御倉半島の先の溶岩ドームは、2千年前の噴火で出来たものです。その噴火は、過去2千年間の日本列島で最大の規模です」
「いつ、何が起きてもおかしくない場所ってことね。でも、このタイミング。ついてないですね」
ゆっくりと十和田湖の南の国道103号線を走る。
夏の観光シーズンだというのに、あたりはひっそりとしている。ガソリンスタンドや商店は閉まり、行き交う車もあまりない。
御倉半島や中山半島に伸びる道は、バリケードで封鎖されていて、その奥に青森県警のパトカーが見えた。
気象庁などの行政関係者だろうか、ライトバンに大型バス、自衛隊らしき緑の車両も停まっている。
「今日は、様子見ですね」
諦めたように先輩が言った。
十和田湖の西側に移動し、温泉旅館に飛び込みで泊まる。木目の外装が美しく、中は千と千尋の神隠しに出てくる湯屋のように雰囲気がある。
湖が見れる部屋、ただし二人で部屋を別にしてほしいと言っても、フロントの女性は妙な顔もせず、淡々と手続きをしてくれた。
部屋からは中山半島とその奥の御倉半島の溶岩ドームが一望できた。
「変ですね……」
先輩が声を上げる。
二つのタブレットとスマートフォンで何かのデータを眺めている。
「どうしたんです?」
「火山性微動が全然ないんです。ほら」
十和田に設置された震度計と近傍のデータを見比べる。
十和田で火山活動が活発化しているのなら、ごく小さな地震が頻発するはずだ。しかし、近くの火山の八甲田山と比べても、むしろ活動傾向が低い。
「どういうこと?」
先輩が首をひねる。
火山活動とは別のことが起こっているのかもしれない。ヒカルは思った。
窓の外を見ると、自衛隊だろうか、エンジンをつけた暗い色のゴムボートが、湖面をゆっくりと横切っていった。
その夜、御倉半島にいくつもの白い光が行き交うのをヒカルは見た。
LEDの明かりだ。懐中電灯と言うには明るい。サーチライトかもしれない。
部屋の扉がノックされる。先輩が立っていた。
「何かがおかしい。確かめましょう」
御倉半島の付け根の東湖側に車を停める。
ここに来る間にも、何台もの自衛隊車両とすれ違った。
噴火したわけでもないのに、こんなに自衛隊がいるものだろうか。
ザックを担いだヒカルに、後部座席を漁っていた先輩が何かを手渡す。防毒マスクだ。吸収缶付きの、火山ガスからも防護できるタイプだった。
「万が一です」
「凄いっすね。いつも車に入れてるんですか?」
「当然です」
先輩は誇らしげに笑った。
月明かりの中、道路を避けて湖畔を北に進む。
ここまで来て、ヒカルは迷っていた。
ワーム・ホールの出現が終息していなかったら、一体どうすべきだろうか。
観察、記録して発表する。それは科学者として正しい態度だ。
でも、発表したら、人類はその先の世界へ興味を持つだろう。
イシュタルの神話を元に、往来は危険だと言って、誰が信じるだろうか。大勢の人がイシュタルを訪れることになる。
そんなことになったら、地球に帰るのに協力してもらった、アシェリアに対して申し訳ない。
いらない心配だとは思う。ワーム・ホールの発見にすら、あれだけ苦労したのだ。
「ちょっと、ヒカルくん」
先輩に服を掴まれて我に返る。
先輩が指差す先に、白い霧が立ち込めていた。
かなり規模は大きい。中心には人間が通れるくらいのワーム・ホールが開いているだろう。
これほどたやすく見つかるとは。
イシュタルとの繋がりは、絶たれていなかったのだ。
「本当だったんだ……」
先輩が呟く。
そのとき、道路から切り裂くような光が投げ降ろされる。いくつもの大声が聞こえる。
二人はとっさにしゃがみ込む。
自衛隊だろうか。
ちょっとした騒ぎになっているようだ。人を呼ぶ声もする。
身を隠す二人の目の前で、霧は溶けるように、ゆっくりと薄くなっていく。
道路から、あからさまな落胆の声が聞こえる。
「一体どういうことでしょう?」
「わかりません。でも、彼らもワーム・ホールを探しているんです」
二人は声を殺して北に進む。
湖岸に並行する道路では、一定間隔で人が配置されているようだった。
黙々と進む。
二十分ほどして、霧の中にいることに気づく。
サーチライトが照らされる。
ひときわ大きな声が上がる。誰かいるぞという声。
見つかった!
そのとき、重たいものを叩きつけるような音が響く。
銃声!?
それは霧の奥から聞こえた。
何かがイシュタルで起きようとしているのだ。
「僕は行きます」ヒカルは言った。「イシュタルに戻る。先輩は引き返して、ここで起こってることを発表してください」
だが、先輩はニヤリと笑った。
「冗談。こんな面白いこと、ほっとけるわけないでしょう。イシュタル? いいじゃないですか。全部あたしの研究成果にしてあげます」
二人は、真っ直ぐ霧の奥へ駆け出した。
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