ヒカルの世界、地球

第21話 それをボスポラス海峡と呼べるのか

 日常が戻ってくる。

 二週間も地球を離れていたにしては、それほど騒動は大きくなかった。

 夏休みだったおかげだ。

 車のバッテリーが上がっていて、地球に戻ってからも半日無駄にした以外、大きなトラブルはない。


 久々に大学に顔を出す。セミの声。刺すように明るい日差し。入道雲。

 夏の盛りになっていた。

 図書館でトルコについての本をいくつか借りて、研究室の自席で広げる。スマートフォンに残っていた空中から撮った写真と、地図を見比べる。

「旅行の計画? 随分優雅ですね」

 かけられるアニメ声。視界にいっぱい広がる、黒いニットに包まれた飽満なバスト。

「二週間も行方知れずだったと思えば、研究もせずに読書とは、ヒカルくんは余裕ですね」

 顔を上げる。先輩がいた。

 中学生のような背丈なのに、胸とお尻の主張が激しい。ノースリーブのサマーニットは童貞を殺す気満々のやつだ。

 丸い眼鏡の奥の目が厳しい。

「先輩も随分トゲありますね。ハリネズミにでもなったんすか?」

 ヒカルの皮肉を先輩はふんっと鼻を鳴らして一蹴する。

 フラッシュメモリが突き出される。

「これ、頼まれてた火山灰テフラを確率有限要素法で解析したやつ。ヒカルくんがいない間にやっておきました」

「あざっす」

 ヒカルは拝む真似をしてフラッシュメモリを受け取る。

 先輩の専門は地球物理学における確率論と数理解析だ。特にシミュレーションを得意としている。

 何度も飛び級を繰り返し、わずか二十歳で博士課程の二年という才媛でもある。

 なのでヒカルは、年下の彼女を『先輩』と呼んでいる。

「ほんと、心配してたんですからね。LINEも全然返してくれないし……」

「もう、ほんっとこの通りです」

 先輩がヒカルのスマホに表示されたイシュタルの写真に気づく。

「これ、空撮……気球ですか?」

「まあ、そんな感じです」

 アシェリアの匂いを思い出す。指先には彼女に触れたときの温もりが今も残っている。

「これ、黒海ですね」

「よくわかりますね」

「水面の色と地形でわかりますよ。それにしてもよく撮れてる。でも……」

 先輩は写真の隅っこを指さした。

「ボスポラス海峡の形が、なんだか変ですね」

 ボスポラス海峡は黒海とマルマラ海を繋ぐ、全長約三十キロの海峡である。

 幅は最も狭い箇所で7百メートルほどしかない。

 しかし、歴史上ヨーロッパとアジアの境界として栄え、沿岸には東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスの故地もある。


 ヒカルは地図と写真を見比べる。地図ではボスポラス海峡はS字の形をしているが、写真ではほとんど真っ直ぐだ。

 似ているが異なる二つの世界。平行世界、パラレルワールド? なぜ似ている? 何が異なる?

 イシュタルと地球はかつて一つだったのかもしれない。

 だとすると、二つの世界が分岐したのはいつだろうか。

 ボスポラス海峡は、7千年前に黒海を襲った洪水で形成されたという説がある。

 地中海の海面上昇により、大量の海水が、まだ小さかった黒海に流れ込み、その際に形成されたのがボスポラス海峡だという。

 ボスポラス海峡の形が違うのは、二つの世界が7千年より前に分岐したからかもしれない。

 その形がイシュタルで直線的なのは、より大きな侵食を伴うような大洪水だったからだろうか。地球ですら、その洪水は当時の黒海周辺の農耕を壊滅させた。一説によれば、この洪水がノアの大洪水の伝説の元になったという。

 イシュタルで起こった洪水がどのような規模か想像もつかない。

「先輩」

 ヒカルは彼女を見上げて言った。

「この二週間、実はパラレルワールドに行ってて、この写真はそこで撮ったって言ったら、先輩はどう思います?」

「は?」

 先輩は言った。「頭、大丈夫ですか?」

 まあ、普通の反応だよな。


 ヒカルはイシュタルでのことを話した。

 先輩は徹頭徹尾、胡散臭げな目でヒカルを眺めていた。

「先輩、全然信じてないですね」

「ちょっと、信じられないですね。現実感が無さすぎて」

「写真もあるんです」

 ヒカルはスマートフォンのギャラリーを開いて写真を見せる。

 アシェリアと撮った空中写真、ボグワートの風景、与えられた樹上の部屋。

 スクロールする先輩の手が一枚の写真で止まる。

 エミルだ。

 先輩がアイドルオタだった事を思い出す。当然、可愛い女子に目がない。

 先輩からスマホを奪い返し、イシュタルで撮った最初の一枚を見せる。

 日差しにきらめく草原で微笑む、白い女神。

 先輩が固まる。

 ヒカルがコーヒーを淹れて戻ってきても、先輩はそのままでいた。やがて絞り出すように呟く。

「尊い……」

 その後、先輩にデータをねだられた。無加工なのを確認したいと言っていたが、単に欲しいだけだろうとヒカルは思った。


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