第19話 忘れないで
「問題は、ワーム・ホールの持続時間が極端に短いことだね」
アシェリアは言う。
持続時間についてはデータを取っていなかったが、彼女によればほとんどが一秒以内に消滅するらしい。
ワーム・ホールが大きければそれだけ持続時間も長いようだが、直径十センチほどでも三秒も持たない。
直径三十センチのワーム・ホールの持続時間は、長くて数十秒。
その間にヒカルはワーム・ホールに突入しなくてはいけない。アシェリアがワーム・ホールを発見してヒカルに伝えてから全力ダッシュ、ではとても間に合わない。
「こういう方法がある」
アシェリアはそう言うと、ヒカルに手をかざす。
次の瞬間、ヒカルは草原の端に立っていた。アシェリアの姿が豆粒のように小さい。
何が起こったか理解できない。
アシェリアが霞むように消え、傍らに姿をあらわす。彼女はひらひらと手を振った。
「やっほ」
瞬間移動だ。
「他人を飛ばすのは、結構力を使うんだよね」
「凄い。これで僕をワーム・ホールの上に飛ばしてくれれば……」
「そういうわけにはいかないんだ。この力は、わたしが見える範囲にしか飛ばせない。でも、ヒカルがワーム・ホールを通ってきたときのことを思い出して」
「そうか、霧か……」
「ワーム・ホールの正確な場所は白い霧に覆われていてわからない。近くまでは飛ばせるけど、結局最後はヒカルが走るしかないんだよ」
アシェリアは力を完全回復するのに三日間かかると言った。
「三日間はボグワートに泊まるよ。人間らしい暮らしをすれば、回復も早いし」
「アシェリアは普段どこに泊まっているの?」
「神殿。夜は神像に戻るんだ」
アシェリアはポーズを決めて、「こんなふうになってる」と言った。
「え? マジ?」
「真に受けないで。嘘だよ」
二人は笑う。
「この三日間で最後だから、ヒカルとはいろんな話がしたい」
ヒカルは僕もだよ、と言いたかったが、照れくさくて、ついに言えなかった。
二人は沢山のことを話した。
育った場所。好きな食べ物。今まで行った一番面白かった所。それぞれの世界で語られる物語。
ヒカルは大学院の個性的な先輩のことを話し、アシェリアはイシュタルの個性的な神々のことを話した。
イシュタルではサハラ砂漠が地球よりずっと小さいことをヒカルは知り、アシェリアは地球の二度の世界大戦について知る。
アシェリアが百年かけてユーラシア大陸を横断した話に、ヒカルは一ヶ月かけてアメリカ大陸をグレイハウンドバスで横断した話で応える。
この世界の知識も随分と増えた。例えば、ホモ・サピエンス以外の人類。それらは蛇の子という意味のメラハンナと呼ばれていると、アシェリアは言った。地球では、ホモ・サピエンス以外のヒトは絶滅したと、ヒカルは言った。
ヒカルの両親が営む洋食店と生意気な妹をアシェリアは羨んだ。
「人だった頃、奴隷だったんだよ、わたし」
アシェリアは淡々と言った。「ひどい時代でね。寒い夏が何年も続いて、食べるものもあまり無かった。両親は貧しい農民だった。きょうだいは7人。わたしが売られるまでに3人死んじゃった。村に行商人が来てね。わたしは豚一頭と交換された。まるまる太った豚だったよ。村の人はガリガリに痩せてるのに、なんでこの豚は太ってるんだろうって不思議だった。それからまた売られて、そこでは随分と悲惨な目にあった。溶けた鉛を飲まされたり、肩の焼印も、見たでしょ、焼印」
アシェリアの肩先に図章のようなものがあったことを思い出す。
「焼印を押されるの、嫌だったなあ。ただただ痛くて、そのあと熱も出た。焼印が腐って死ぬんじゃないかって怯えて……」
アシェリアが不思議そうな顔でヒカルを見る。「どうして、君が泣きそうな顔をしているの?」
たぶん、アシェリアのことを好きになっていたんだろうとヒカルは思う。
この優しく美しい女神に恋をしているのだ。そして多少なりとも、この女神に憎からず思われているのも感じる。
だがそれは叶わぬ恋だ。
ヒカルは地球に帰り、アシェリアはイシュタルで生きていく。
焼印を見たいとヒカルは言った。
アシェリアは逡巡したが、黙って肩を出してくれた。
白い肌に、いくつもの傷がある。その中でひときわ痛々しい、引きつったような茶色い跡。円の中に文字と、咆哮する獣の姿が図化されている。刻まれた暴力に胸が痛くなる。
「この傷は治らないの?」
「無理だよ。人だった頃に付けられたものだから」
そっと焼印に触れる。柔らかなアシェリアの肌がそこだけ乾いている。
「人だった頃の話をしたのは、初めてだよ」
アシェリアは静かに言った。「わたしの神話にも載っていない。忘れないでね、ヒカル。地球に帰っても、わたしを忘れないで。アシェリア・グリーファ・イル・イシュタルスを、忘れないで」
忘れないとヒカルは誓った。
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