第16話 神々が戦うとき、人は
アシェリアは急ブレーキをかけたように空中で止まる。表情が厳しい。彼女は直立した姿勢で、ヒカルを庇うように背中を向ける。
それは猛スピードで近づくと、アシェリアと同じように空中に立った。
神、なのだろうか。全身が光っているが、その輝きはアシェリアに比べて灰っぽくくすんでいる。
男だ。ホモ・サピエンスに見える。
それもかなり身分が高いのだろう。老シャーマンなどとは比較にならないほど豪華な服を着ている。
風にはためく黒のコートの袖口に散りばめられた金のボタンだけで、本物なら何十万円もするだろう。
しかも男は剣を帯びていた。
男はおもむろに剣を抜くと、アシェリアに刃先を向けた。
罵るように、何かを怒鳴る。
アシェリアも反論するように何かを言い返す。
聞いたことのない言葉だった。ボグワートの言葉とも、森の言葉とも違う。濁音が少なく、シャ、シュなどの拗音が多い。
二人(二柱というべきかもしれない)は知り合いのようで、言い合いを続ける。
男の歳は三十くらいか。
コートの下は昔の陸軍の肋骨服のような服を着ていた。ボタンや飾緒はすべて金で、剣の柄も鞘も金で装飾されている。
男は次第に苛立つ。剣を振り上げる。
アシェリアが宥めるが、剣は振り下ろされた。
アシェリアは動かない。いや、動けないのだ。僕のせいで。
ヒカルは思わずアシェリアを突き飛ばす。
剣は空を切った。良かった。アシェリアは無事だ。
自由落下が始まる。
もしかしたらアシェリアのように飛べるかと思ったが、無理だった。頭から落ちるって本当なんだと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
アシェリアが何かを叫びながら飛んで来る。
来るな! 男が追って来てる。
アシェリアがヒカルに追いつき抱きとめると同時に、剣がアシェリアの背中を捉えた。
斜めに振り下ろされる斬撃。
アシェリアの胸甲が弾け飛び、結わえた髪が解けて広がる。
アシェリアの口から、くぐもった悲鳴が漏れた。
それでも彼女はヒカルを離さない。ヒカルの手を取ったまま、男に向き直る。
肩から背中にかけて、痛々しい傷口が開いている。白い下着が、見る見るうちに朱に染まっていく。
『この一撃で収めよ』
アシェリアが言った。
言葉の意味がヒカルにもわかる。頭の中に直接語りかけられているような感覚だ。
『これ以上を望むのであれば、こなたも容赦しない。その剣でそなたの首を刎ね、王宮の屋根に飾ってやる』
男は構えを崩さない。王宮?
『そなたの血に繋がる者も、全て殺してやる。何処かに逃れた者がいても見つけ出して必ず殺す。匿った者も殺す。そなたの血を引くと名乗った者がいればその者も殺す。何百年経とうと許さぬ。そなたの血筋を永久に地上から絶やす。自死も許さぬ。こなたが全て殺してやる』
男はようやく構えを解いた。吐き捨てるように何かを言う。
『好きにするがよい』
男はヒカルにもなにかを言うと飛び去った。
「ふう……」
アシェリアが大きく息を吐く。
「傷、大丈夫?」ヒカルは言った。
大きな傷だ。骨に達している。現代医療で治療しても、障害が残るかもしれない。
「大丈夫。でも痛い……泣いてしまいそう。ごめん、傷口押さえてくれる?」
アシェリアはそう言ってヒカルの首筋に手を回して、もたれかかる。
ヒカルは彼女の背中に手を伸ばす。血のぬめりと温かみを感じる。
「もっと、強く」
ヒカルは抱きしめるように力を込める。血は止まっているようだった。少し安心する。
肌を通じて、アシェリアの震えが伝わってくる。
「怖かった……」
小さくアシェリアが言う。「聞こえてたよね。わたしの言ったこと」
「うん」
ヒカルは頷く。
「本心じゃないからね……」
少し気恥ずかしそうにアシェリアは言う。「ほんとにはしないよ、あんなこと」
「わかってるよ」
アシェリアは目を閉じていた。二人は抱き合ったまま、木の葉が舞い落ちるようなスピードでゆっくりと落ちて行く。
草原に向かっているが、風に煽られ容易ににふらつく。アシェリアの息が荒い。
「上手く着地できる自信がない。ごめん」
人の身長の倍くらいの高さになったとき、アシェリアが言う。
「この高さなら大丈夫。落として」
重力が急に仕事を思い出したように、ヒカルは足から着地する。ふくらはぎが痺れる。何歩か勝手に足が進む。
アシェリアは大丈夫か。振り返る。
アシェリアはまだ浮いている。受け身を取れていない。このままだと背中から地面に激突する。
ヒカルは手を伸ばす。何度か飛び上がったところでアシェリアの指に触れる。地上に引き寄せた。
アシェリアの体重がかかり、ヒカルは背中から崩れるように転ぶ。草原に二人は転がる。
アシェリアの前では、いっつも転がってばかりだ。
「力を使い過ぎた。もう少し、このままでいさせて」
ヒカルに体重を預けたまま、アシェリアは言った。声に少し力が戻っている。
全身を覆っていた光が、肩と背中に集まってくる。傷口が小さくなってゆく。治癒しているのだ。
「あの子たち……エミルたちには言わないでね。襲われたこと。心配するから」
午睡の時間だろうか、草原に彼女たちの姿はない。
「言わないよ。ごめんね、僕が余計なことをしたせいで、怪我をさせてしまった」
「気にしないでいいよ。どっちみち、わたしを殺すつもりだったよ、彼は。嫌いなんだ、彼、わたしのこと」
「あいつはいったい誰? 随分怒っていたみたいだけど」
「神。そしてイラハンナたちの国の王。いつの間にか、彼の国に入ってたみたい。王国の空に人を上げたのが気に食わないんだって。イラハンナの宗教だと、天は神の国だから」
「イラハンナ?」
「神の子という意味。人の一種。わたしと君のようなタイプの人。不遜にもイラハンナは、自らを神の子と名乗っている」
「地球では、僕らはホモ・サピエンスと名乗っている。不遜にも、賢い人という意味だよ」
アシェリアの傷はもう随分と塞がっていた。
血糊も肌に吸収されるように消えていく。
下着がめくれ上がり、白い光が布地の切り口を、縫い合わせるように繋いでいく。
露わになった肩先に、いくつかの傷跡と、なにかの図章が刻まれているのに気付く。
刺青ではない。
なんだろうと覗き込むと、形の良い乳房が見えてしまい、ヒカルは目を逸らした。
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