第14話 そのとき、大いなる災いが起こる
巫女たちが、アシェリアの髪を結い終わる。長い髪を彼女は一つ編みにしていた。
アシェリアはヒカルと手を繋ぐ。
「絶対に、離しちゃだめだよ」
頷くと、身体がふわりと浮き上がる。手から引っ張り上げられるというより、体と地上を繋いでいた糸が切れたみたいだ。
20メートルほど浮いたところでいったん止まる。地上で巫女たちが、無邪気に大きく手を振っている。
「行くよ」
アシェリアが呟くように言った。
次の瞬間、猛スピードで上昇がはじまる。まるで自由落下を逆回転したようなスピードだ。
轟々と風を切る音がする。飛ぶ鳥の群れの脇をかすめる。見る見るうちに草原は緑の点となる。
右半身が、より風の抵抗を受けているのを感じる。アシェリアと左手で手をつないでいるおかげだろうか、左半身は比較的楽だ。
「たいじょうぶ?」
アシェリアが言っているのが見える。音はかき消されて聞こえない。
ヒカルは頷く。
5分くらい経っただろうか、アシェリアは上昇をやめた。
ヒカルは不格好にもがいていた。まるで無重力にある宇宙飛行士のように、ふわふわとして位置が定まらない。
アシェリアは地上にいるときと変わらない。見えない床に立っているんじゃないかというくらい安定している。
アシェリアがヒカルの正面に回り込み、ヒカルの右手も取る。
「落ち着いて、立てると信じて」
ヒカルは深く息をする。
立てる。自分に言い聞かせる。
眼下に迷子のような雲がひとかけら、ぽつりと浮いている。
3千メートルは昇っただろうか。富士山と同じくらいの高度だ。
森はもう暗い色をしたひとかたまりの模様にしか見えない。遠くに、海が見えた。
「わたしを、見て」
アシェリアの手が暖かい。
だんだんと重力を思い出したかのように足が降りてくる。おっかなびっくりだが、ヒカルも空中に立つ。
アシェリアが笑う。彼女の身体がかすかに光っている。
見間違いではない。その光は繋いだ手を伝って、ヒカルの身体もうっすらと輝かせていた。
思ったほど風を感じない。身体を包む光が、守ってくれているのを感じた。
「なにか、わかったかな?」
アシェリアの言葉に、ヒカルはあたりを見渡す。
全体的に地形は北に傾斜しているようだ。北に大きな海が見える。水面が何故か黒っぽい。湖かもしれない。船もいる。タンカーや貨物船といった大型船ではない。
漁船だろうか。
大地には東西に走った線状の構造が見て取れる。
断層帯だ。日本の中央構造線に似ている。
そのせいで川はまっすぐ北の海に流れ込めず、西に向かって流れている。
西側にも湾か湖が見えた。
手を繋いだまま写真を何枚か撮る。まだ視界が狭すぎて、世界地図と比べても、なにもわかりそうもない。
「もっと上に行ける?」
アシェリアは頷く。
先ほどを遥かに超えるスピードでニ人は上昇する。
雲に突っ込む。帯電した氷の粒子が耳障りな音を立てる。響く雷鳴に、身体がビクッと強張った。
アシェリアはヒカルを引き寄せると、胸と肩のあたりに手を回した。アシェリアの髪からバラの匂いがする。身体を包む光が輝きを増す。
「このほうが、ヒカルを守れるから」
アシェリアの声が耳元で聞こえる。
確かに身体が格段に楽になる。息がしやすい。寒さも消えた。
空が紫に変わってゆく。すでに雲は遥かに下にあった。
見上げると、燦然と星が輝いていた。
胸元にアシェリアの温もりがある。自分の心臓の音がはっきりと聴こえる。
アシェリアはゆっくりとスピードを緩める。
「まだ、昇れるけど、これ以上だとヒカルを守るのが難しい」
十分だとヒカルは言った。
地球の丸さがわかるほど、二人は昇っていた。真っ暗な空の下、地球は青く光っていた。
もはや大地は緑がかった茶色の平べったい板にしか見えず、森林なのか草原なのもわからない。川や湖は黒っぽい絵の具でひいたシミのように見える。
町のようなものもあるが、いずれも小さい。巨大なビル群やハイウェイは、どこにもない。
北に海の対岸が見える。その海は西側に見えた水面と、陸橋のようなもので隔てられているが、僅に開いた海峡で繋がっている。
その先にも広い海があり、南側の海と繋がっている。広い海は島だらけだ。
東には大地がどこまでも続いている。半島なのだ。
半島の南西には積層火山も見える。
半島の北側に走る断層帯といい、ここが激しい造山運動の中にあることがわかる。
この光景をヒカルは知っていた。
断層の名は北アナトリア断層。トルコの北部を東西に貫く大断層だ。
北側の海は黒海。西と南の海はエーゲ海。
ボグワートはトルコにあったのだ。
ヒカルは黒海の西側の陸橋を見つめた。
どれだけ見ても、イスタンブールがあるはずの場所には、なにもなかった。
ここは、ヒカルの知っている地球ではなかった。
過去の地球ではない。
かつて神はいたかもしれないが、ホモ・サピエンス以外で土器や金属器を使った人類はいない。
未来だとしたら、どれだけ時間が経っているのだろう。
ホモ属が再び複数種に分かれ、世界有数の大都市であるイスタンブールが遺跡すら残さず消滅するのに必要な時間は、十万年か、百万年か。
時間は不可逆だ。未来にしか進まない。過去へのタイムトラベルは、科学的な可能性すら示されていない。
もう、戻れない。不安と絶望で叫びだしたくなる。
「違ったよ」
ヒカルは言った。「ここは地球だ。でも、僕のいた地球じゃない」
「そう」とアシェリアは小さく言った。
ヒカルに回した手に、力が籠もる。
ゆっくりと、二人は降りていった。
静かだった。世界に二人きりしかいないような気になる。
「イシュタルにも神話がある」
囁くようなアシェリアの声が聞こえる。「始まりの日、創造の二人の神は、二つの世界を作った」
二つの世界。
ヒカルは心の中で繰り返す。
イシュタルと地球のことだろうか。未来ではなく、平行世界なのか。
「いつの日か二つの世界は交わるだろう。やがて世界は一つになる。そのとき……」
アシェリアが言いよどむ。
「そのとき?」
「そのとき、大いなる災いが起こる。世界を滅ぼすほどの災いが」
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