第10話 この世界の神の一人

 4日目の朝、いつものように朝食を食べていたヒカルは、広場の外で悲鳴が上がるのを聞いた。

 人々が口々に何かを叫び、ロープを伝って次々と樹上の家に上がっていく。

 一頭のライオンが、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。オスだ。まばらながら、たてがみがある。

 なんでこんなところにライオンが? と硬直するが、エミルの叫ぶような声で我に返る。

 彼女に促されてヒカルも手近な木に張り付く。

 エミルはスルスルと10メートルほど登っていく。随分と身軽だ。

 ボグワートの女性が小柄なのは、筋肉を発達させなくても木に登りやすいように適応したのかもしれない、などと、今考えなくてもいいことを考えてしまう。

 ロープを握ったがいいが、樹皮を編んだだけのロープはつるつるとしていて、3メートルほど登ったところで、滑り落ちた。

 樹上からたくさんの人々の声がする。早く登ってこいと言っているらしかった。

 いい人たちだ、本当に。ライオンに何かを投げつけている人もいる。

 ライオンは怪我をしているのか、後ろ足を引きずっている。

 食い詰めて人間を襲いに来たのだ。

 どさりと音がして、ヒカルの脇にかご付きのロープが投げ降ろされた。普段は乳飲み子や道具の上げ下げに使っているものだ。

 ヒカルが掴まると、上で声を合わせた掛け声が聞こえる。

 引っ張り上げようとしてくれているが、上がるスピードは遅い。

 人力だけで持ち上げようとしているのだ。滑車をボグワートでは見たことがなかった。

 ライオンと目が合う。

 20メートルくらいの距離を一気にライオンが詰める。片足を怪我しているはずなのに、ライオンは跳躍した。振り上げられた前脚はヒカルの胴ほども太い。

 思わず目を閉じて祈る。でも誰に。

 仏や神がいるのか、ここに?

 思い浮かべたのはアシェリアの横顔だった。草原に立つ彼女の姿に祈った。死にたくない。

 手を離してしまった。落下する感覚はやけにゆっくりだった。

 地面に叩きつけられるが思ったほど痛くない。

 ライオンの爪は、届かなかったのか?

 そのとき沸き立つような歓声が、集落を覆った。覚えのある匂いがした。バラ?

 開いた視界に、白い後姿がいっぱいに広がる。アシェリアだ。

 直立する彼女の右手に、ライオンの前足が振り下ろされていた。左側の首筋には、ライオンの牙が突き立てられている。

 アシェリア! 思わず叫びそうになる。

 だが、彼女は身じろぎ一つしない。

 爪も牙も、食い込む手前で見えない何かに遮られたように止まっていた。それに、まるで空中に浮いているように見える。

 ヒカルを見下ろし、彼女は微笑んだ。

「その祈り、確かに叶えたよ」

 真っ白いワンピースが羽根のようにはためく。彼女は今まさに地上に降臨しようとする天使に見えた。身体が輝いて見えるのは、朝日のせいだろうか。

 アシェリアとライオンはスローモーションのようにゆっくりと地面に落ちる。ワンピースが、地上に降りるときふわりと広がった。

 一方、ライオンは大きな音を立てて地面に転がった。喧嘩に負けた猫のような情けない声を上げて、ライオンは飛び退いた。

 アシェリアが手を翳すと、ライオンは伏せてうずくまる。そのまま、崩れ落ちるようにライオンは動かなくなる。

 死んだ……のか??

 ひときわ大きな歓声が起こった。

 ヒカルは立つことができない。腰が抜けてしまっていた。

 歌が聴こえる。

 見上げると、巫女たちが祈りながら歌っている。老シャーマンは説法か演説のように高らかな声を上げている。

 アシェリアが現れたときの歓声の意味が分かった。ボグワートの人々は、アシェリアがライオンなどに傷つけられるとは、つゆほども思っていなかったのだ。

 そう。彼女は突然に現れた。

 朝食を食べているとき、彼女の姿は絶対に広場になかった。

「アシェリア……君はいったい……」

 彼女はゆっくりと口を開いた。

「わたしは……、この世界の神の一人」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る