第9話 少女と万有引力
アシェリアは不思議な少女だった。美しいだけでなく、頭の回転も早い。
彼女はどんな話も一度聞いたら忘れなかった。たとえ理解できなくても、音として覚えておくことが出来た。
6進法と10進法の違いも、アシェリアは、はじめから理解していた。
それでいて笑うと無邪気そのものだった。
ヒカルはアシェリアに歳を尋ねたことがある。
彼女は数えられないというふうに左手をひらひらさせて、まともに取り合ってはくれなかった。
自分のことを説明するより、彼女はヒカルの話を聞きたがった。ヒカルがどんな場所から来たのかを、彼女は知りたがっているようだった。
ヒカルは地球には80億近いホモ・サピエンスがいることや、その3倍のニワトリが飼われていることや、15億台の自動車があること、そのほとんどが北半球に集中して存在することを話した。
「北半球?」
ヒカルは円に大陸を入れて簡単な世界地図を描く。「これが地球」
イシュタルも同じ形だとアシェリアは言った。
赤道を入れて、北半球の説明をする。
40度の緯線を描き、「もしイシュタルが地球だとするなら、僕らはこの辺にいる」と言った。
我ながら、なんて漠然としているのかと呆れる。ユーラシアと北米という巨大な大陸がすっぽり収まるのだ。現在位置の特定までは、まだまだ前途多難だ。
ふと、地球のどこかと、というのには『いつか』も含まれるのではないかと思う。
どういう理由かはわからないが、数万年から数十万年後の未来に来てしまったと考えるのはどうだろうか。
なら、GPS衛星が落ち、人類が進化していてもおかしくはない。だとすると、帰る手段は絶望的に無くなる。
アシェリアに頼んでイシュタルの地図を描いてもらう。
彼女の描いた地図は円の中心に大きな大陸があり、大きな内海と広い森が広がっている。
その周りには、大陸なのか島なのかもわからない陸地が散らばっている。
中世のTO図よりはマシだが、明らかに測量技術の発展していない、もしくは喪われてしまった文明の世界地図だ。
しかし、ヒカルの世界地図の方をアシェリアは不思議だと言った。北半球が重そうに見えるらしい。
「転がらない、なぜ?」
大陸プレートが海洋プレートより軽いことを説明する。アシェリアは地球の中にマグマが詰まっていて、そこに海と大陸が浮いていると理解したようだった。マントルや核について説明するのは骨が折れそうだったので、ひとまずそれで良しとする。
「だから、大陸は動く。ずっと昔、大陸は一つだった」
「昔? おかしい。わたしが産まれてからずっと、大陸の場所、変わっていない」
「君が生まれるより、ずっと昔の話だよ」
アシェリアは少しの間、遠い目をした。
浮いているだけなら、なぜ地球はバラバラにならないのかと尋ねられる。
万有引力の説明は大変だった。
すべての質量を持った物体は互いに引かれ合うというのを、平易な日本語に直すのは難しいし、彼女は『すべての』というところに納得がいかないようだった。
たまには引き合わないことはないのかと彼女は尋ねた。
「ない」ヒカルは言った。「全ての質量を持つ物体は常に相互に引き合っている。絶対に」
そのあと彼女は考え込み、ヒカルはその横顔をいつまでも眺めていた。
まるで世界の行く末を決めようとしているかのごとく、彼女は真剣な表情をしていた。
その姿は神々しいまでに美しかった。
ヒカルはイシュタル=地球仮説に基づいて、ボグワートの位置を特定しようとしていたが、事実上頓挫していた。
緯度を測ったところで手詰まりとなってしまったのだ。
緯度と植生から、大陸の周縁部あるいは島であることはわかるが、大した絞り込みはできない。生物学者であれば固有種からどの大陸かくらいはわかるのだろうが、その素養はない。そもそも北半球であるというのも、今が日本と変わらない夏というだけの根拠だ。タイムスリップまで考慮すると、南半球まで候補に入る。
やはり経度が知りたい。
経度がわかれば、この星の上での位置が2点にまで絞り込める。南半球のその点が海であれば、北半球と断定する証拠たり得る。
しかし、経度を測る術が無い。
現代ではGPS衛星を利用した三次元測位で地球上のどこにいても簡単に経度が分かるが、本来、経度の測定は、いわば回転するボールの上で蟻が自分の位置を確認しようとしているようなものだ。
歴史上でも困難を極め、経度を測るということが不可能の比喩として使われていたほどだ。
北極星や太陽の南中高度を測定すれば容易に計算で出せる緯度とは、難易度が違う。
日食や月食を利用して経度の測定を行う方法はあるが、肝心の計算方法をヒカルは覚えていなかった。
人類が生み出した最も簡単な経度の計算方法は、グリニッジ天文台との時差を利用するものだ。そのためにはグリニッジ天文台の現在時刻が必要なのだが……。
「そもそも、グリニッジ天文台がどこかわかれば、苦労しないよなあ……」
ロンドンの現状がわかれば、緯度経度などわからなくても、一気にその先がわかる。
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