第5話 木登りが苦手な僕のために

 言語の天才は存在する。

 例えば生涯で60以上の言語を習得した人物や、アイスランド語をわずか一週間で習得したサヴァン症候群の人物の話を聞いたことがある。

 アシェリアも同じような天才なのだろう。

 一人称が『僕』なのは、ヒカルの話した単語の意味を理解し、その中から自らの話すべき言葉を選び取った証拠だ。

 アシェリアは大きく息をつくと、今日はおしまい、というふうに手のひらを上げた。


 アシェリアが木戸に向けて何かを呼びかける。

 木戸が開き一人の女の子が現れる。

 白髪碧眼の美しい少女だ。この集落の子だろう。アシェリアよりまだ幼い。12、3歳くらいだ。

 女の子はアシェリアの元に駆け寄ると膝を付き、恭しく頭を垂れた。

 アシェリアと同じような白いワンピースに、金の刺繍のされた黒い毛織物のロング丈のベストを着ている。

 お下げ髪に花が編み込まれていて、彼らの暮らしぶりに余裕があることが伺える。

 アシェリアは彼女に何かを言い含める。

 女の子は頷くと、立ち上がってヒカルの手を引く。帰りは彼女がエスコートしてくれるようだ。

 木戸の手前で振り返ると、草原は再び静まり返り、アシェリアの姿は消えていた。

 木戸の脇には老人もいなかった。

 人の気配のない果樹園を抜けて、集落に入る。

 女の子はアシェリアにそうしろと言われているのか、しきりにヒカルに話しかけて、様々なものの名前を教えてくれた。

 彼女の名前はエミル、集落の名前はボグワート(イシュタルはもっと大きな、世界という意味らしい)、葡萄はウメケ、他にもたくさんのものを指差して彼女は名前を言ったが、覚えられたのはごく一部だった。ヒカルはもちろん、言語の天才ではない。


 夕暮れ時の集落は昼間とはうってかわって活気に満ちていた。

 あちこちで人だかりが出来ていて、男たちは弓や槍を手にしていた。誰もフードを被っておらず、遮光器もつけていない。

 戦いの準備かと思ったが、表情は明るく、狩りに出かけるところのようだ。

 大人の女性の姿がないのかと思っていたが、間違いだった。子供のような背丈ではあるが、老婆もいれば、乳飲み子を抱えた母親もいた。

 男性が190センチを超える長身に対し、女性は成長しても140センチほどにしかならないらしかった。

 彼らの外見はゲルマン系かスラブ系に見えるが、それなら男女ともに長身で、ここまで性差はないはずだ。

 未知の人種かもしれない。

 彼らはヒカルとすれ違うと、手を止めて好奇心に満ちた視線を向けたが、後をつけられたり、敵意を向けられることはなかった。

 エミルのおかげだろうか。彼女は割と身分が高いらしく、頭を下げられることも多かった。

 門番の老人も着ていたが、黒い毛織物は高い身分の象徴なのだろう。

 巫女かもしれない、とヒカルは思った。


 エミルが案内したのは、一本の巨木だった。大人が3人で手をつないでようやく囲めるくらい幹が太い。

 ヒカルの身長より少し高いところに、蔦のようなものを編んだ小屋が作られていた。

 他の家が10メートル以上の場所にあって、ロープで出入りしているのに、その小屋だけは特別に低く、縄梯子がかけられていた。

 小屋はほとんどが乾燥した硬い蔦で出来ていたが、部分的に若い蔦やロープで補強されていた。

 ヒカルのためにわざわざ低い場所に移設したようだった。

 エミルに促されて、ヒカルは小屋に入った。

 中は意外に広く、四畳ほどはある。外枠は太めの蔦で編まれ、床は割った竹で補強されている。藁のようなものが敷き詰められていて、チクチクするがとりあず寝られそうだ。

 エミルが下から心配するような声をかける。ヒカルは顔を出し、

「ありがとう。ここ使っていいんだよね」と言った。

 エミルが何かを言う。注意事項のようなものらしかったが、意味はわからなかった。

 やはり、アシェリアほどうまく意思疎通は出来ない。


 エミルが去ったあと、ヒカルは寝転んで天井を眺める。

 帰りたいと思う。

 イシュタル? なんなんだよ、それは。

 アシェリアについて考える。明日も会えるのだろうか。

 多少とはいえ意思疎通の出来る彼女は、なにもわからないヒカルにとって唯一の希望だ。

 でも、彼女は一体何者なんだろう。

 この集落の住民ではないのか。なんのために、ヒカルから言語を習得しようとしているのか。

 次から次へと疑問が湧いてくる。

 ヒカルはマウンテンパーカーのフードを被ってジッパーを一番上まで上げた。

 眠い。まだ宵の口なのに、強烈に眠い。

 目が覚めたら、アパートのベッドの上だったらどんなにいいか。

 そのまま泥のような眠りに、彼は落ちた。

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