ひとりぼっちドールと旅鳥

雪村 紅々果

ひとりぼっちドールと旅鳥

 とあるところ、とある時に、一羽の鳥がいた。名前をセキレイという。白黒の羽と長い尾を持っていた。セキレイは何か考える時、長い尾を上下に振るのが癖だった。


 セキレイは旅をしていた。長い旅だった。長い旅のうちに色々な場所へ行ったので、様々なことを知っていた。セキレイは思慮深く、また、優しかったので友人が沢山いた。


 ある日、セキレイはとある洋館の窓の縁に降り立った。古い洋館だった。外壁はびっしりとツタに覆われ、窓のサッシは錆び付いて、もう二度と閉まらなくなっていた。中を覗くと、もっと酷かった。壁紙は剥がれ落ちて丸まり、ところどころの床板は抜けている。家具の残骸のようなものが部屋の隅に積み上げられて、かろうじて無事な机と椅子も灰色の土埃が積もっている。


「随分と不気味な家だ」


 セキレイは中に人が居ないのを確かめると、家の中に入った。部屋の真ん中に置かれていた机の端に、セキレイは止まった。部屋の中は薄暗く、少し寒いようだった。本当なら、こんな不気味な洋館にあまり長く居たくなかったが、遠くに見える黒い雨雲がセキレイの羽を鈍くさせていた。雨に打たれては、上手く飛べない。セキレイは仕方なく、廃墟当然の洋館で、羽を休めることにしたのだった。


 ふと、セキレイは机の上にある置物が気になった。赤い台座の上に、白いバレリーナが片足で立っている。台座の後ろに鈍い金色のネジが着いたそれは、どうやらオルゴールのようだった。


 セキレイは瞬く間に台座の上のバレリーナに目が釘付けになった。美しいバレリーナだった。白磁の肌にほんのりと色付いた唇。丁寧に着色された繊細な指先に、弓のようによくしなった体。まるで、本当に生きているかのような瑞々しさが、そこにあった。


 セキレイは何気なく、そのオルゴールに近付いた。すると、バレリーナの方もセキレイに気が付いたのか、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。


「こんにちは、ミスター。どうかなされたの?」

「こんにちは、ミス。どうも雨が近いようでね、暫しの雨宿りを許してくれないだろうか」


 セキレイは礼儀正しく頭を下げた。長い尾が持ち上がって、ぴんと伸びた。


「まあ、それは大変。何も無いところで申し訳ないのだけれど、どうかゆっくりなさって?」


 バレリーナがくるりと、片足だけで回った。バレリーナが回ると、台座の中のオルゴールが、合わせて鳴った。美しい音色だった。夜空に浮かぶ星が、天の川に間違って落ちた時、跳ねる雫の音はきっとこんな音だろう、とセキレイは思った。


「ありがとう、ミス。貴方と会えた事を幸福に思うよ」

「あら、あら、まあ」


 バレリーナがセキレイの言葉にさらに頬を赤くしたあと、はっとして、今度は顔を真っ青にし、俯いた。薄い唇はほのかに震えているようだった。


「どうか、なさいましたか。ミス。顔色が悪い様ですよ」

「ああ、ごめんなさい。久しぶりのお客さまに、申し訳ないのだけれど、わたくし、とても、醜い格好をしているのを、思い出してしまって」


 そう言うバレリーナの声は途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうな程、か弱かった。


 その言葉を聞いて、セキレイがもう一度バレリーナの体をよく観察した。遠くに居たはずの雨雲は、もうかなり近付いていた。部屋の中はさらに薄暗くなってきていたので、セキレイはよくよく目を凝らさなければ、バレリーナの体はよく見えなかった。


 そして、セキレイは驚いた。バレリーナの体はあちこちがひび割れていて、なんと、片足が無くなっていた。セキレイが初めに片足立ちをしている、と思ったのは実際には片足が無くなって、それをスカートで誤魔化しながらバランスを保っていたのだ。


「なんと! どうしなすったのです! そのお体は!」


 セキレイはたまらなくなって叫んだ。


「もしや、暴漢にやられたのですか! なんと惨いことをする。ミス、犯人の特徴をあげてご覧なさい。私めが捕まえてきましょうぞ!」

「ああ──」


 ついに、バレリーナの美しい瞳からぽろりと涙がこぼれた。バレリーナは目を伏せて、涙をこぼし続けていたが、意を決したかのように胸の前で両手を握りしめると、切なげに告白する。


「──違うのです、ミスター。誰も彼も、悪い人などいないのです。この傷はわたくし、そう、わたくし自身がつけたものなのです」

「なんですと?」


 バレリーナは、ぽつりぽつりと胸の中に留めていた悲しみの夜露を、こぼして行くように、かつて、この洋館が賑やかに栄えていた日のことを話し始めた。


   ◇


 わたくしがこの家に来たのは、とある年のクリスマスのことでした。その時、この家にはルーシーという小さな女の子がいました。わたくしはそのルーシーへの、贈り物としてこの家に運ばれて来たのでございます。わたくしは形のいい箱に詰められ、真っ赤で手触りのいいリボンがかけられました。


 ルーシーは病気がちの子供でした。そして、ルーシーの両親はたった一人の小さな娘を心の底から可愛がっていました。だからこそ、わたくしを贈り物に選んだのです。わたくしはオルゴールです。プリマ・バレリーナではありませんが、踊りができます。音色もそれはそれは優しい音が鳴ったのです。長時間劇場にいるのが難しい一人娘に送るには、ぴったりな品だったと自負しています。


 ですが、クリスマスの朝、ルーシーはわたくしを拒みました。


 まるで本物の人のようで、こわい。


 ルーシーはわたくしをそう言って受け取ろうとしなかったのです。


 わたくしは悲しかった。その時は黙ってじいっとしていましたけれど、本当は悲しくて悲しくておかしくなってしまいそうでした。わたくしのような玩具は、人に愛されてこそ役目を果たせるのです。役目を果たしてこそ、わたくし達、道具が存在する意味ではありませんか。


 やがて、わたくしは誰も使わない部屋に押し込められ、忘れ去られてしまいました。じりじりと、胸にこびり付くような時間が流れました。そしてそのうち、ルーシーも、ルーシーの両親も、わたくしが気づいた時には、いつの間にかこの家を出ていった後でした。


 しん、と静まり返った家に、わたくしはすぐに不安で胸がいっぱいになってしまいました。誰でもいい、ルーシーでも、ルーシーの母でも、父でも、あるいは出入りしていた庭職人でも、コックでも構わない。誰かわたくしを見つけて、この寂しい家から連れ出して。ずっとそんなことを考えていました。


 そして、わたくしもついに静けさにおかしくなったのでしょう。わたくしは、わたくしがあまりにも人に似すぎているから、ルーシーが出ていったのだ。わたくしが人でないことを示せば、ルーシーも帰ってくる。そう考えるようになりました。


 わたくしは勝手に台座から降りて、近くに置いてあった品のいい水差しを無理やり引き倒しました。水差しは呆気なく割れて、色とりどりのガラスの欠片が散らばりました。そして、わたくしは水差しの破片を何度も自分の体に打ち付けたのです。打ち付けたところで、わたくしの体から血は流れません。少し、肌のところが欠けてしまうだけです。


 ああ、これでわたくしが人でないと証明できた。わたくしの体は陶器で出来ている。これできっとルーシーもわたくしを怖がったりしない。すぐにこの家に戻ってきて、台座のネジを巻いてくれるに違いないわ。


 この時、わたくしは本気でした。本当に、わたくしが傷付くことで、ルーシーが帰ってくると信じてやまなかったのです。


 わたくしは、歓喜で踊り狂いました。どんなに疲れても踊りをやめませんでした。踊って、踊って、踊って……。そのうち、初めに欠けたところから少しずつひびが広がり、やがて全身に回りました。体も少しずつ動かなくなっていきました。一度転んで、片足が取れてしまった時、やっとわたくしは愚かな自分がしでかしたことに気が付いたのです。


 ルーシーは帰ってこない。それどころか、もうこの家に帰ってくる人は誰も居ないのです。


 わたくしは泣きました。何度も何度も泣きました。涙を流す度にひびは大きくなり、体は軋みました。そして、わたくしは疲れました。疲弊してしまったのです。もう、すべて、何もかもに疲れてしまったと思ったのです。心の底から。


   ◇


 バレリーナが話し終わった時、雨雲は激しさを乗せて、洋館のすぐ上までやってきていた。雨は洋館の外壁を何度も叩き、雷がすぐそこで光った。部屋に吹き込む風も荒々しさを増し、セキレイは飛ばされないように踏ん張らなければ、机の上に止まっていられなくなった。


「ああ、ミスター。けれどもね、ミスター」


 バレリーナは俯きながら笑っていた。しかし、その頬は濡れていた。それがバレリーナの涙なのか、吹き込む雨のしずくなのか、セキレイには見分けがつかなかった。


「わたくし、今日はとっても幸せですのよ。久しぶりに、あなたのようなお客さまがいらっしゃったのよ。わたくし、もう、死んでしまっても構わないわ」


 セキレイは息が詰まった。こういう時に、なんと言っていいのか分からなかった。けれど、ぐっとお腹に力を込めて、覚悟してバレリーナに一歩、歩み寄った。


「ミス。ああ、ミス。貴女はよく頑張りました。たった一人で、誰も恨んだり責めたりせずに待ち続けた、その強さ、尊敬に値するものでしょう」

「ミスター」

「どうです、私と一緒に来ませんか」


 気が付けば、セキレイは深い考えも無く、バレリーナを誘っていた。バレリーナがはっと、とても驚いた様子で顔をあげた。こんな不気味な家に縛り付けられる事は無い。もう彼女は十分待ったのだ。ここで私と彼女が出会ったのはきっと運命だ。だから、私が、彼女を助けなくては。セキレイは強く思った。


「実は、私は、旅をしているのです。誰にも邪魔されない、自由気ままな旅です。自由ですけれども、決して孤独なことはありません。私には沢山の友がいます。貴女に会って欲しい人ばかりです」


 どうでしょう、とセキレイは言った。


 雨と風はいよいよもって激しくなり、もう洋館の中にいるのに、外にいるのと変わらないくらいになっていた。しかし、そんな中でも、バレリーナはほんの少しの驚きと喜びと嬉しさで、幸せそうに微笑んでいた。


「もし、もし……ミスターのお誘いが本当であったなら、こんなわたくしでも迷惑でないのなら……」

「無論、本当だとも!」


 セキレイが、雨音に負けないよう、大声で叫んだ。


「ああ。なんて、なんて……ミスター、わたくし、」


 その時、ひときわ大きな風が吹いた。そして、開け放たれていた窓から大きな枝が飛び込んで来た。どうやら、あまりの強風で折れた枝らしかった。セキレイは驚き、とっさに羽を広げ、飛び上がった。小柄なセキレイは無事に枝を避けきることができた。


 しかし、その時、ガラスか陶器が割れたような、激しい音が雨音に混じってセキレイの耳に届いた。セキレイは嫌な予感がした。


 セキレイは部屋の中で荒れ狂う風を避けながら、どうにか机の上に、再び着地した。そして、見えた景色にセキレイは絶望の声をあげた。


「ああっ!」


 窓から飛び込んで来た枝は、ちょうどバレリーナの腹の辺りにあたり、その体を真っ二つに割ってしまっていた。また、当たって倒れた衝撃か、悪化したひびが、滑らかだった体をばらばらにしてしまっていた。白い肌は砕け散り、台座は底が外れ、ネジもおかしな方へ曲がっていた。


 誰が見ても絶望的だった。セキレイは暫く呆然として、バレリーナの欠片を見つめ続けた。


「……もし、ミスター」


 か細い声が、セキレイを呼んでいた。セキレイは驚き、竦んでしまった己を奮い立たせて、バレリーナの近くまで寄って行った。


「ミス、ミス、すまない。私のせいだ、私が不甲斐ないせいだ」


 瞬く間に湧き上がった後悔に、セキレイは苦しそうな声を漏らした。セキレイの表情は悲痛そのものだった。いつの間にか、セキレイの小さな瞳は涙でいっぱいだった。


「いいえ……いいえ、ミスター。これでいいのです。これでよかったのです」


 バレリーナが今にも消えてしまいそうな声で囁いた。セキレイはバレリーナの最後の言葉を一音でも聞き漏らすまいと、必死に耳をそばだてた。


「ミスター……あなたは先程、わたくしが、ルーシーとその両親を、恨まずに待ち続けたとおっしゃいましたけれど……本当は一度だけ、恨みに思ったことがあるのです……きっと、その罰ですわ」

「たった……一度だけでは無いですか……」


 セキレイは小さな声で必死に抵抗した。しかし、バレリーナの声はさらに小さくなるばかりだった。


「いいえ、ミスター。わたくしは、玩具、なのです。人に使われ、使われなければ、存在する意味がないような、そんな物なのです。人に忘れ去られては生きて行けない……ですから、人を恨むなんて、たった一度でも、やっては、いけなかったのですわ、きっと……」


 バレリーナはとても穏やかな声で囁いた。セキレイはただ泣いていた。もう涙を流すしかなかった。バレリーナを助けるにはあまりにも翼が小さく、何もしてやれないことがあまりにも悔しくて、辛かった。


「ミスター……わたくしのこと友人と思って、たった一つ、我儘を聞いてくださる……?」

「ああ、聞くとも。なんだって聞いてあげよう。私の何よりも大切な親友よ」


 バレリーナが、春の花がほころぶように微笑んだ。


「わたくしが死んだら、わたくしの体のひと欠片、どこか綺麗な場所に埋めて下さらない? たったひとつだけの、お願いよ」

「ああ、わかった。少し先へ飛んだところに、一面に、真っ白で美しい花の咲く丘がある。そこの一番高いところに埋めてあげよう」


 約束だ、そう言って、セキレイはバレリーナのひび割れた額に優しく口付けた。バレリーナが擽ったそうな笑い声をあげた。


「ありがとう。わたくしの、たったひとりの、おともだち」


 バレリーナが最後の力を振り絞って、囁いた時。古いオルゴールは全て粉々になって、後には、小さな欠片とネジだけが残った。その小さな欠片とネジも、激しい雨風が酷くいたぶって、部屋の隅まで転がしていってしまった。


 雨はもう、誰にも止められないくらい強く、激しく、ツタに覆われた洋館と周りの木々を揺さぶっていた。雨の足音が高く、響いていた。


 セキレイは長い尾をぱたぱたと上下に振って、汚れた机の天板を繰り返し叩いた。セキレイは長いこと尾を振って、叩いていた。しかし、しばらくのあと、ふとセキレイの尾の動きが止まった。セキレイは小柄な体でうなだれている。大粒の雨がセキレイの羽を濡らしていた。


 ふと、セキレイは陶器で出来た小さな欠片をくちばしで加えると、窓の外へ飛び去った。セキレイの黒い背中は、背広を着て整えたかのように、凛として美しかった。セキレイはどこまでも高く飛び続けた。


 セキレイは激しい雨の中、一度もふらつく事なく、真っ直ぐに飛び続けた。


 そうして、セキレイが二度と洋館を訪ねることは無かった。

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