冬が去れば、春と会う

双 平良

冬が去れば、春と会う

 ある冬のからりとした雪晴れの朝、天上から鳥の甲高い声が響いた。

 参道の新雪を竹箒で掃いていた颯太そうたは、はじかれるように、音が響いた方を見上げた。そこには、広大な青空があった。

 見渡す限り雲はない。

目を細めて、じっと空を見つめると、藍染の絹布を広げたような空の中を飛んでいくものがいた。北から南へと移動していく一羽の鶴だった。

 大きさの程はわからないが、豆粒のように見えても遠い空を大きな翼を広げて飛ぶ美しい姿は容易に想像ができた。

 颯太は、ほうと息を吐く。吐息はあっという間に白くなって、冷えていく。そのまま鶴を眺めていると、鶴が向かっていく南の山から吹き降ろす風が風花を連れてきた。

「今日はよく冷える」

 小さくつぶやいて、あたりを見渡す。颯太がいるのは湖の北のほとりであった。

 人の気配はない。

 湖の縁には防風用の松の木が立ち並び、深緑の木立の間から、大きな鳥居を構えた神社の本殿が見える。その神社から真っ直ぐと伸びる参道は颯太がいる足元から、湖の中へと続いている。そして、波打ち際から先に視線を移すと、広大な湖の中央に小島があった。小島には小さな鳥居と社が鎮座し、その傍らには、桜の大木が一本植わっている。

 颯太が立つ場所からは、小島はあまりに遠く、小さく見えた。だが、颯太は近くに行かなくてもその様子は簡単に脳裏に浮かんだ。小島の管理者であり神主であった父に連れられて、何度も舟で行ったことがあるからだ。

 桜は、社が建てられる以前よりそこに在った。

 小島の鳥居や社、対岸の神社などは、すべて後から取って付けたようなものだと、颯太はいつも思っている。そこに祀るべきものがあった。ただそれだけなのだ、と。

 あの桜がこの美しい湖とそれを囲う山々と一帯の地域の要なのだ。今は葉が落ち、枝と幹だけとなっているが、色のない景色を真っ先に言祝ぐのはあの桜であるのを、颯太は知っている。

 一年に一度、出会うその季節が颯太は好きだった。少し色が和らいだ青空と湖面に薄紅の花弁が天女の羽衣のように舞うのは、まるで夢見心地だ。

 それがそろそろ見られる時期だと考えると、颯太は寒さに負けることなく、せっせと参道の雪を掃く。

 再び、生き物の声が遠く聞こえた。ぴぃんとした鏑矢のような澄んだ声だった。同時に、地響きのような大きな音があたりに鳴り響いた。颯太は驚いて、音が鳴った湖を見た。

 そこには湖で途切れたはずの参道が、例の小島まで続いていた。

 びきびきと、目の前で出来あがっていくのは、氷の道だった。

氷の道が続く小島へと目を移すと、満開の桜が咲いていた。淡い薄紅の花弁と氷の粒が、湖面上を満たす様は、とてもこの世のものとは思えない光景だった。

 見惚れたように颯太が目を細めていると、小島の鳥居の下に誰かが立っていた。遠くて顔は見えない。否、透けて見えない。ただ、桜の花弁が視界を遮る度に人の手足や顔の輪郭、着物の裾が見え隠れしている。

 驚くことなく、颯太はその様子を視認すると、小さく頭を下げ、"彼女"の動きに注意する。ぼんやりとした薄い人影は、鳥居をくぐると氷の道を、踊るようにこちらへと渡ってきた。そして、微動だにしない颯太の隣を、風のように通り過ぎて行った。

 通りすがりにくすくすと鈴がなるような笑い声を携え、「彼女」のつま先が、颯太が掃き清めた地を踏んでいく。

 「彼女」はあっという間に参道を抜け、本殿の鳥居を踏み台に、北の御山を駆け上がった。

 ぶありと空気が暖かく膨れ上がり、花びらと粉雪が舞った。再び鏑矢の声が木霊する。

 思わず目を閉じた颯太が、目を開けて空を見上げるころには、遠くの遥か上空を、皓い鹿が駆けていた。まだ雪が積もる山の頂上を踏み台に、細い優雅な四肢であっという間に山向こうに飛んでいってしまった。

 一連の出来事が、まるでなかったことのように静まると、周囲はいつも通りの颯太が知る風景だった。あれだけ満開だった桜も氷の道もない。ただ、山々に囲まれた青い空と鏡のような凪の湖があるだけ。

 ただ、人とも生物ともつかない足裏が参道に後を残していた。それだけが、颯太が見たものが、夢幻ではない証左となる。

 「今年はいつもより早いお出ましだ」

 名残惜しくも足跡を掃くと、颯太は"彼女"が駆けて行った空を見上げた。「彼女」は、新しい季節をまだ知らぬ北へと向かって行ったのだろう。

 笑うように歌うように。 

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