一年間の教室
葵月詞菜
一年間の教室
三学期の修了式の日、一年間お世話になった教室を念入りに掃除した。掲示物は全て取り外され、最後に残るのは机と椅子と備え付けの掃除用具入れとロッカーのみ。
(よし、大丈夫そう)
すでに昨日までに教科書などは全て持ち帰っているので、大荷物というわけでもない。だが次に使う人のためにも綺麗にして去らなければ。
なにせ、ピカピカの一年生が使うのだ。
「笠木、こっち来て来て! 写真撮ろ!」
友人の
教室内では残った生徒たちが同じように写真を撮ったり雑談をしたりしている。このクラスも今日で最後だ。
千佳のそばには三人の男子たちがいた。二人は人当たりの良さそうな笑顔だが、その間にいる黒髪眼鏡の長身男子は仏頂面で面倒くさそうに立っている。
「あら珍しい。高瀬もちゃんといるじゃない」
入学当初は誰も寄せ付けなかった――というか近寄るなオーラ満載だった――のに、何だかんだで馴染んだな、と苦笑する。
「帰ろうとしたらこいつらが」
よく見たら彼の両腕はがっちりと男子二人に捕まえられていた。
「
高瀬が大のお気に入りの千佳が二人に親指を突き立てる。千佳が苦手な高瀬は眉間の皺を深くした。
矢㮈がまたクスクスと笑ってしまうと、さらにさらに睨みが飛んで来た。視線で八つ当たりをするのはやめてほしい。
逃走するのが不可能だと悟った高瀬は諦めの溜め息を吐くと、千佳たちの写真に付き合った。仕方なくという感じはあれ、写真を拒まないくらいには仲良くなったんだなあとまたしみじみ思ってしまった。
(いやいや、あたしはアイツのおかんか)
矢㮈は心の中で苦笑して、友人たちの撮影会の中に加わった。
撮影は千佳が満足するまで続き、気付いた時には他のクラスメイトたちの姿は消えていた。
「ありがと! 欲しい人はデータでもプリントアウトでもあげるから言ってね!」
「一体何枚撮ったんだ……」
大満足顔の千佳が明るい声で言い、疲れ果てた顔の高瀬がげんなりとしている。
「しっかし、何か寂しいよなあ……」
松浦が教室の中を見渡してしみじみと呟いた。
掲示物がなくなり、黒板も綺麗に消され、生徒の私物が消えた教室はどこか寂しい。
「四月からは新しいクラスかあ。みんなが一緒ってのはないだろうけど、誰か一緒だと良いな」
矢㮈たち普通科は五クラスある。ここにいる誰か一人とは一緒になれるかもしれない。
(千佳ちゃんと一緒だと良いなあ)
そんなことを思っていると、
「高瀬君、また一緒だと良いね!」
千佳は高瀬に向かってそんなことを言っている。
「千佳ちゃん! あたしも一緒が良い!」
「うん、笠木も一緒だと嬉しいな」
矢㮈が負けじと割り込むと、千佳はあっさり頷いた。軽い。高瀬に対する熱量と全然違うではないか。
矢㮈は悔しくなって、高瀬の脇腹を肘で突いた。
「
「高瀬が悪いんでしょ」
ちなみに矢㮈は、別に高瀬と同じクラスでなくて良い。きっと向こうもそう思っているに違いない。
それぞれが鞄や荷物を持って教室を後にする。
最後に出た矢㮈は思わず教室を振り返った。
傾き始めた日の光が柔らかく差し込む教室は、しんと静かで物寂しい。
(一年、あっという間だったな)
入学して一年を過ごした教室。言葉に言い表し難い気持ちが胸に込み上げる。
「おい、行くぞ」
数歩先にいた高瀬が言う。彼はいつものように黒くて細長いケースを肩に掛けていた。この中には彼のキーボードが入っている。
初めてこれを背負っている彼の姿を見た時、中身はなんだろうと気になったことを思い出した。――なかなか教えてくれず、弾いてもくれなかったが。
今ではもうすっかり耳に馴染んだ彼のキーボードの音を思うと少し懐かしい。
「何不気味に笑ってんだ」
「うるさいなあ。ちょっと思い出し笑いしただけ」
そんな軽口を叩きながら、矢㮈たちは教室を後にした。
***
そして迎えた二年目の新学期。
クラス発表の掲示を前に矢㮈は思わず声をあげてしまった。
「やった。また千佳ちゃんと一緒だ!」
新しい教室に緊張しながら足を踏み入れ、自分の席に近付く。名簿順で前にいた二つくくりの女子生徒が振り返った。
「おはよう、笠木。また一年よろしく」
「うん、またよろしくね。千佳ちゃんが一緒でホントに良かった~」
「あたしも一緒で嬉しい。――でもなあ」
笑顔だった千佳の顔が一瞬の後に曇り、はああと脱力するように項垂れた。
「ど、どしたの?」
「高瀬君と離れた……」
そう、高瀬とはクラスが離れた。矢㮈はそこまでショックでもなんでもなかったが、千佳には大きなショックだったらしい。心の中で「ドンマイ」と呟いておく。
結果的に、矢㮈と千佳と松浦が二組、高瀬と衣川が三組だったようだ。
矢㮈は新しく相棒になる机と椅子にそわそわしながら着席した。
周りにはちらほら同じクラスだった者がいたが、ほとんどが知らない者ばかりだ。千佳は同じ陸上部員の知り合いにあいさつを返していた。
どこの部にも属していない矢㮈は緊張しながら、新しいクラスメイトたちをこっそり観察していた。
(ああ、やっぱり千佳ちゃんが一緒で良かった……)
心からそう思った。
とはいえ不思議なもので、一週間も経つと新しい教室も慣れてしまう。登校すると、当たり前のように足はそちらに向かうようになっていた。
新しいクラスが始まると掲示物も増え、ロッカーや机周りにクラスメイトたちの私物が溢れ始める。
初めて会う人のような緊張感を伴っていた教室が、すっかり馴染んだおじさんおばさんのような空気を醸し出していた。こうして教室はできあがっていくのだろう。
矢㮈も日に日に、新しい友人が増えて行った。
そして昼休みには千佳が隣のクラスの高瀬をお昼に誘うので、矢㮈も渋々ながらそれに付き合うことになった。
***
一か月も経った頃だろうか。
放課後、矢㮈はたまたま一年の教室の前の廊下を通りがかった。
ほとんどのクラスはもう誰も残っているものがなかった。その内の一つ、かつて自分が一年を過ごした教室の前で立ち止まる。
開きっ放しのドアからそっと中を覗くと、そこには全く知らない教室があった。
壁の傷とか、掃除用具入れの凹みとか、覚えがある箇所はあるのに、あまり懐かしさを感じない。他のクラスを訪れる時のような、どこかよそよそしい教室。
まだ一か月前のことなのに、と不思議な感覚に陥っていたら、頭の上から声が降って来た。
「何してる。覗きか」
「! 高瀬」
どこから現れたのか、高瀬が後ろに立っていた。手には鞄、肩にはいつもの黒いキーボードケースがある。
「いや、何か……ついこの間まで自分の教室だったのに、全然違う感じがして」
矢㮈が戸惑いをそのまま言葉にすると、彼は黙って矢㮈と同じ様に教室の中を見渡した。
「ふーん……まあ、そういうもんじゃねえの」
「え?」
高瀬は興味を失くしたように踵を返した。
「ちょ、ちょっと高瀬!」
「お前にはもう新しい教室があるだろ。そこはもう他のやつらのもんってことだ」
高瀬はそのまま歩き始める。
矢㮈もその後を追った。何となく、彼の言わんとしていることは分かった。
「それよりお前、屋上行くんだろ?」
「行くよ。バイオリン取って来なきゃ」
「先行ってるぞ。
高瀬はすたすたと屋上に続く階段を上がって行く。矢㮈は途中で進路を教室へと変更した。
矢㮈はどこの部にも属していないが、その代わりに高瀬ともう一人の音楽仲間とともに、放課後音楽を奏でている。今日も屋上で集まる約束をしていた。
自分の教室に着くと、不思議なことにどこかほっとした。
自分のロッカーからバイオリンを取り出し、鞄を持って教室を出る――ふと思い直して、誰もいない教室を振り返った。
見知らぬ人のような感じはしない。身近な友人のような感じ。
知らず知らずのうちに、ふっと笑みを浮かべていた。
「一年、よろしくね」
そっと、教室に向かって呟くと、音楽仲間たちが待つ屋上へと向かった。
一年間の教室 葵月詞菜 @kotosa3
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