通り魔に刺された男

憂杞

「誰でもよかった」

 目の前で女性が死んだ。僕の目の前で。

 会社の帰り道でのことだ。日がすっかり落ちた暗路の中だからこそ、街灯に照らされた女性の死に様は明瞭に見えてしまった。胸を正面からナイフで一突き。仰向けに倒れた彼女は白いワンピースを赤く染めて、下のアスファルトへも同じ染みを広げている。近くの通行人達がどよめく中で、僕は腰を抜かして震えることしかできなかった。

 誰かの通報で駆けつけたらしい警察が、あろうことか僕に目撃したことを訊ねてきた。返答によっては自分が疑われかねないと察した僕は、必死になって事の顛末を話そうとした。前触れもなく事件が起こったこと、死んだのは見ず知らずの女性であること、自分は偶然居合わせたに過ぎないことと……それ以上は喋れそうになかった。

「犯人の顔は見ましたか?」

 抑揚のない問いかけが無遠慮に傷を抉る。忘れもしない。犯人は悍ましく歪んだ形相を僕に見せた。そして去り際の忌まわしい言葉も記憶に刻み込んだ。――誰でもいい、と。そう叫んだ犯人は、嗤いながら刃を突き立てた。

 ああ、はっきり憶えている。早く忘れたいのに。今日が最後になることを祈って、僕は通り魔の正体を打ち明けた。だけどその人の訴えまでは、息苦しさに阻まれて話せない。自分の胸にも何かが深々と刺さっているようだった。

 翌日も事情聴取を受けることになった。僕の発言に嘘はないはずなのに、僕だって被害者なのに、なおも巻き込まれ続けるなんて。会社に休みの連絡を入れる時も、警察署へ足を運ぶ時も、自分の一部を通り魔に攫われた事実に挫けそうになる。

 警察から同じ質問を幾度もされる間に、裂くような胸の痛みがしきりに僕を襲った。至近距離から血を被った自分は疑われて当然なのだろう。だけど僕は無関係だ。ただでさえ頭に焼き付いた悪夢を執拗に掘り返すなんて苦痛でしかない。なあ、誰でもいいんだろう? 僕が何をしたっていうんだ?

 もう思い出させないでくれ。こんな拷問はもうたくさんだ。……喉まで出かけた悲鳴もまた、息苦しさに阻まれる。こうして取調室で警察に向き合う間にも、背後から何かが僕の胸に手を回しているように思えた。駄目だ。彼女を悪く言おうものなら、次はどんな痛みが待ち受けるか分からない。

 誰でもいい、と。通り魔は僕を見て叫んだ。私を悼んでくれるなら誰でもいいと。

 そして、目の前で命を絶った。

 彼女が僕の胸に突き立てた刃は、今も深々と刺さったまま離れない。






『ニュースをお伝えします。一昨日午後七時頃に〇〇交差点で起きた通り魔事件は、被害者の自殺であったことが警察の調べで明らかになりました。被害者の女性は過去にも一度の自殺未遂を経験しており――』


 休日の昼に自宅のテレビであの通勤路を見て、僕はコーヒーを飲みながら溜め息をついた。昨日になってようやく現場での捜査が追いついたらしく、晴れて潔白になれたとはいえ警察という二文字には未だ敏感なままだ。これからは事件や事故に一切遭わないことを心から願う。

 僕の目の前で亡くなった女性については、昨晩のニュースでも幾らか言及されていた。親御さんや古くからの仲だという人達が泣きながら取材に応じて、本人の人柄や趣味といった取り留めのないことを切れ切れに話していた。なぜ女性が二度も自殺に及んだかは全く分からないが、あれだけ気が触れた彼女にも死を悼む人が他にいることは僕でも分かってしまう。初めてそれを観た夜は感情がぐちゃぐちゃに掻き乱されて眠れなかった。

 だけどそんな激しい動揺も、胸の刃を抜くための足掛かりと思えば悪くない。

 そろそろ行こう。思い立った僕は予定通りに身支度を済ませ、テーブルに置いていた花束を抱えて外へ出る。近所の初めて寄る店で勧められた無難なものばかりだが、何も手向けないよりはいいだろう。

 誰でもいい――その言葉が心からの叫びなら、僕にもほんの少しだけあなたを悼ませてくれるだろうか。間違った道筋であなたを知ってしまった僕でもいいのなら。

 意識して事件を忘れようとすることはやめた。その代わり僕が自分の時を過ごす中で少しずつ彼女を許せば、いずれ刃はひとりでに零れ落ちてくれる。そんな不確かな未来を信じようと思う。

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