31:足を踏み出す理由は、この胸の内に
私には、昔から誰かよりも特別優れていた取り柄なんてなかった。
唯一得意と言えたのは長距離走のマラソンだけ。そのマラソンだって、選手に選ばれるような速さで走れる訳ではなかった。
ただ、どんな長い距離でも最後まで走りきること。それだけが私の密かな自慢だった。
走っている最中に苦しくなると、子供の頃に読んでもらった絵本を思い出す。
ウサギとカメの話。どんなに足が速くても途中で居眠りをしていたウサギが、足が遅くても最後まで走ったカメに負けるお話。
だから私はカメで良い。鈍臭いとか、ドジって言われても良い。パッとしないなんて自分が一番わかっている。
でも、ただ走り続けたいんだ。走ったその先にゴールがあるように、きっと答えだってある筈だから。
それがどんな答えなのかわからなくても良い。欲しい答えのために走っているんじゃなくて、走った先の答えが知りたいから。
途中で諦めてしまえば、私の知りたかった答えなんて永遠に手に入らないのだと思う。だから、私は走り続けたい。
「――もう諦めなよ」
朦朧としていた意識が現実へと一気に引き戻された。
私の白い衣装は全身に出来た切り傷で赤く染まっていた。全身が引き攣ったように痛くて、すぐに目が霞んでしまいそうになる。
私を真っ赤に染めたエルユラナスは、慈悲深い笑みを浮かべながらも一切笑っていない目で見下ろしている。
「勝ち目なんてないよ。今の私は、貴方よりずっと強い」
息が切れる。肩で呼吸をしてしまう程だ。だから言葉を返せない。
「幾らでもわからせてあげる。ねぇ、でもね? 死んじゃったらさぁ、意味がなくなっちゃうでしょォ!」
今度は爪ではなかった。迫ってきたのは拳。回避しようとして地を蹴ろうとした足はもつれ、鳩尾にエルユラナスの拳が叩き込まれた。
何か聞いてはいけない音が、私の身体の内側から聞こえた気がした。
「がはっ、あっ、ぅぁ……っ、ぐぅ、ぁ……!」
「痛いでしょ? 苦しいでしょ? 苦しむ顔も可愛いけど……ねぇ、そろそろわかるでしょ?」
エルユラナスが私を覗き込みながら窘めるように言う。
聞き分けのない子供に向けて仕方ないなぁ、と言うような口調で。
それでも私は起き上がろうと力を込めると、上から抑え付けられるように踏みつけられる。
「ぁ、いっ、た……! あぁ、あぁあああっ……!」
「もしかして折れちゃったのかな? なら痛いでしょ? 痛いなら痛いって言わないとわからないでしょ?」
「……ぁ」
「言ってよ。早く言ってよ。言いなさいよぉッ!!」
私は見上げるようにエルユラナスへ視線を向ける。私を見下ろしているエルユラナスは目が合うと、何故か傷つけられたような表情を浮かべた。
「……何、その目。なんで、何も変わらないの? 嘘でしょ……? まさか、ここまで強情なの?」
「……文恵、ちゃん」
エルユラナスではなくて、敢えて文恵ちゃんの名前で呼ぶ。
びくり、とエルユラナスの肩が小さく揺れたのが見えた。
「……何も、気付いて、あげられなくて、ごめんね」
「……は」
「私、鈍いし、察しも悪いし、頭も良くないから。今もどうしたらいいのかわからないけど、私の好きと、文恵ちゃんの言う好きが違うのはわかったよ」
払い退けるために足を掴んで、そのまま押しのける。
エルユラナスが距離を取って、何か得体の知れないものを見たように私を見ていることに気付いたけれど、言葉は止まらない。
大鎌を支えにしながら、ふらつきそうな身体をしっかりと立たせて彼女を見据える。
「でも、言うね。私、それでも……文恵ちゃんが好きだよ」
「……真珠?」
「同じ気持ちじゃなくても、絶対に目を背けないから。答えはまだわからないけど、ちゃんと応えたいから」
「……ぁ」
「だから、これが貴方のしたかったことで良いんだね? 私を傷つけてでも、魔法少女を辞めさせたかった。全部、私を好きだと思ってくれてるから。私が貴方に傷つけられなくても傷ついてしまうから」
「……そうよ。そうよ! だから――」
「――だったら、傷ついても辞めないよ」
私の返答にエルユラナスは目を見開いて、よろめくように揺れた。
「どうして……?」
「その言葉をずっとわかり合うまで、お互いに問い続けるために。どうして、って。だから教えて? もっと文恵ちゃんがどうしてって思う気持ちを」
「それを知って、どうするって言うの……? そんなことして何になるって言うの!」
「――私たちの傷が私たちの関係になる。だから痛くても、辛くても、苦しくても、絶対に投げ出さないよ」
今、私は笑っていられるだろうか。
本当は泣かせたくなんかない。傷つけたくなんかない。流石にこんなことを言ったら彼女が傷つくことなんて私でも想像出来る。
だからって私は目を閉じることは出来ない。わかりきった結果だと、そう目を閉じてしまったらそのまま眠ってしまうかもしれない。
私は、ウサギにはなりたくないんだ。だから彼女が私を傷つけてでも、と言うなら。
私だって――貴方を傷つけてでも止めてあげたい、その為に言葉を紡ぐんだ。
「貴方が私を思ってこの身に爪を立てるなら、私も貴方を思って貴方の心に言葉を届けるよ。そこに何の差もない」
我慢は得意だ。ゴールするまで走り続けるのも得意だ。それしか取り柄はないけれど。
「この想いが、私の力だから――!」
胸を張って、君にこの想いを届けるために走って行こう。
私たちはそれぞれ違っていて、重なるものばかりではないけれど。
それでも寄り添って、共に歩んでいく覚悟を。その歩幅が違うからと、互いの姿を見失わないように。
そうだ。これこそが心の底から望んでいた私の在り方、私の想いの形、私に力をくれるものだ。
ずっと見たかった景色を見つけたように、何かが心に刻まれていくのを実感する。
――次の瞬間、内側から何かが込み上げてくるような感覚が突如として襲ってきた。
「ッ、な、に!?」
頭が何かに締め上げられたように痛む。その痛みは一瞬で、その代わりに何かが頭上で弾けたような気がした。
次に襲ってきたのは背中への痛み。何か強く熱されたものが内側に入り込んだような痛みに顔を顰め、堪えきれずに仰け反った瞬間にこちらも弾けてしまった。
「――なに、これ?」
頭上には光の輪、背中には光で出来た白い翼のようなもの。
私の内側から次々と光が生み出されるように、その二つは強く光り輝く。
そして、私の内側に今まで感じたことのない程の力が湧き上がってくるのを感じた。
「なによ、それ!?」
さっきとは一転して切羽詰まった様子でエルユラナスが飛びかかってくる。
私は咄嗟に迫った爪に腕を掲げて盾にしてしまう。そしてエルユラナスの爪が私の腕を引き裂こうとした瞬間、目に分かるほどにエルユラナスの力が萎んでいった。
「えっ!?」
「これって、浄化の力……?」
先程までは気休めでしかなかった私の固有魔法である浄化。先程まで致命傷にはならない程度に威力を弱めることにしか発揮されていなかった力がおかしなことになっている。
「なんなのよ、これ……!」
エルユラナスが恐怖すら交じった呟きを零した。彼女の視線の先には、手の先から粒子のように光が零れている。
彼女の纏う衣装が、まるで先端から粒子に変わっているかのような光景に私も見開いた。
(浄化が……エルユラナスの変身を解除してる!?)
よくわからないけれど、もしかしたらチャンスかもしれない!
途方もない力が湧き上がってくることに困惑はしているけれど、今ここでエルユラナスの変身を解除させられれば――!
「ごめんね、エルユラナス――!」
湧き上がってくる力をそのまま、エルユラナスに叩き付けようと私は意識を集中させた。
けれど、その時だった。
「――その力、危険だと判断します。エルユラナスには悪いですが、始末をさせて頂きます」
「――ッ!?」
背後からエルユピテルが迫っていることに気付くことが出来なかった。
彼女は既に剣を構えていて、私の心臓を貫こうと狙いをつけていた。
(駄目、今避けたらエルユラナスに剣が当たる――!)
それならここで避ける訳にはいかないと、これから受けるだろう痛みを想像して目を閉じそうになる。
けれど、エルユピテルが突き出した剣が私の身体に触れる直前で粒子へと変わっていく。それはまるで一瞬にして分解されてしまったかのようにも見える。
「えっ!?」
「――まさか、これ程の力ですか……! これは一体……!」
バイザーで顔の上半分が隠されているから分かりづらいけれど、エルユピテルは刃が半分ほど消失してしまった剣を見て驚愕しているようだった。
なんとか致命傷を受けることは避けられたけれど、前にはエルユラナス、後ろにはエルユピテルに挟まれている。ここからどうすれば――。
「――貴方、エルクロノスに何しようとしたのよ」
ゾッとするような、低く感情を押し殺したような声が聞こえた。
視線を前に戻すと、目を見開いて完全に無表情となったエルユラナスが――エルユピテルを睨んでいた。
「今、誰を殺そうとしたの……? それとも貴方が死にたいのかしら? ねぇ、エルユピテル――ッ!!」
私を無視して、エルユラナスがエルユピテルに向けてその爪を振るうのを私は呆然と見ることしか出来なかった。
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