転機
第20話 スマートフォン①
眩しい朝。
五月になって気温も上向きになり、時々暑いと思う事も増えてきた今日この頃、ベッドの上で椎名は身悶えさせていた。
時刻はまだ6時。普段ならばまだ寝ているような時間なのだが、今日は少し違う。
――俺が一緒に登校しましょうか?
昨日の龍一の言葉が、椎名の頭の中で反駁する。そして、思い出しては身を悶えさせては顔をにやけさせる。椎名自身、気持ちが悪いと思えるような行動であっても、どうしてもそれがやめられなかった。
椎名の事情を察知して、そして椎名に気を遣わせないように配慮をした言葉の数々。龍一の言葉の端々に、彼の優しさが散りばめられていた。
どうして、彼はモテないのだろう。椎名はふとそんな疑問を抱く。
ただ、今はそんな疑問を解消する暇はないので、椎名はベッドから体を起こす。
今日は初めて一緒に登校するわけで、それはつまり、一緒に下校もするということでもある。ということは、これまで以上に一緒に居る時間ができたということなのだ。
椎名は大きく深呼吸をして気合を入れると、足早に洗面所へと向かった。
◇
昨日は結局眠れなかった。
一駅分歩いて、いつもは使わない駅のホームで待つ。見慣れないヤンキーの顔に、周りは少しビビっているが、それよりも龍一の心臓の方がすくみ上っていた。
時間はまだ7時40分。
椎名と昨日約束した時間は8時くらい。電車で15分足らずで到着するので丁度いい時間帯だろう。そのように昨日は話していた。
しかし、いざ朝になると、もしかしたら何か事故に巻き込まれるかもしれないし、もしかしたら本当に想定通りの時間で駅に到着できないかもしれない。いや、それよりも椎名を待たせてしまうかもなどと、そんな思考が龍一を襲い、約束の20分も早く駅についてしまった。いくら何でも早く着きすぎてしまったとは龍一も思う。
住宅街という事もあって、びしっとスーツを決めたサラリーマンや中高生が多い。一駅違いだけなのに、利用客は結構違うようだ。
冴えない頭で周囲を眺めていると、見覚えのあるベージュ色の髪が目に入った。時刻はまだ約束の20分も前であるにもかかわらず、そこには小柄な少女が可愛らしい笑顔を浮かべながら手を振っている姿がある。
早く来ていてよかった。
龍一は10分前の自分に称賛を送りつつ、ゆっくりと歩みを進めた。
ベージュ髪の少女との距離が1mに迫る。普段はベージュ色の髪をふんわりとセットしているのだが、今日は三つ編みがアクセントになったハーフアップになっていて、普段よりも大人っぽい印象だった。
椎名は少し頬を赤くさせながら上目づかいに龍一を見る。
「ごめんなさい。お待たせしてしまったみたいで」
「いや、俺が早く来すぎただけだ」
事実、まだ約束の20分前だ。そう考えると、駅での待ち合わせは良くないのかもしれない。
田舎の電車は本数が少なく、一番早い物で龍一たちが乗車する予定の物しかない。かといって、ホーム向かうには微妙な時間だったので、二人は駅のホームに備え付けられているベンチに座って時間を潰す。
「――そういえば、椎名はいつもこの時間の電車に乗っているのか?」
「え? えーっと、そうですね」
少し他愛のない話をして、その流れから普段は何時頃に乗車しているのかと龍一が尋ねると、椎名は少し焦ったような表情を浮かべつつ、今と同じ時間帯に乗車していると答える。
しかし、実際のところは椎名の乗っている時間帯は龍一の乗っている時間帯と同じなのだ。入学式翌日に、乗客の少ない時間を狙って早めに出ると、偶然にも龍一を発見したことで、龍一の乗っている時間を把握した椎名は殆ど毎日龍一と同じ時間帯を狙って乗車していた。
普段から後ろをついて行っているのだが、未だにバレていないことに椎名は内心ほっとしていた。
そんな事とは露知らず、龍一は「ふーん」と相槌をうちながらスマホの画面を見る。電車の時間まで、あと10分ほどに迫ってきているので、そろそろホームに行った方がいいかもしれないと龍一はベンチを立ち上がろうとすると、椎名はそんな龍一の手元をじっと見つめる。
「……花田先輩ってスマホ持ってたんですね」
突然の問いかけに、龍一は、ぱっと自分の右手に握られているスマホを見る。確かに、昼休みは持ち歩いていないし、昨日も椎名の前ではスマホを操作しなかった気がする。
「そうだな。まぁ、佐藤と須郷くらいしか連絡先を交換してないから、殆ど活用できていないが」
連絡を取る家族もいなければ、つい最近まで友人と呼べる存在もいなかったので、龍一のスマホはスケジュール帳とメモ帳、そして時間を知るための道具でしかなかった。
しかし、最近になって出来た友人である佐藤と須郷の連絡先が追加されたことで、偶に意味もないのにスマホの画面を見るようになってきていた。
龍一の答えを聞いて、椎名は一つ深呼吸をして覚悟を決める。
「そうなんですね。じゃあ、その、あたしと――」
「――あれ、花田くん?」
椎名の言葉を遮るように、一人の女子生徒が姿を現す。
少したれ目気味の大人っぽい龍一のクラスメイトである三浦悠里の来訪に、椎名はぱっと口を閉ざす。
向こうは龍一しか見えていないようで、ゆっくりと二人の座っているベンチに近づいて来る。
「珍しいね、こんな場所で会うなんて! 確か、一つ向こうの駅から乗っているじゃなかったっけ?」
「まぁ、そうなんだが……」
龍一の視線が隣に座っている女子に向く。
親し気に龍一と会話をしていた三浦は、その視線を追うように椎名の方を見る。そして、何か察したように彼女の掌が唇に触れる。
「……あ、ごめん。花田くんって彼女居たんだ」
彼女という言葉に、椎名の心は一瞬熱を帯びる。少し恥ずかしさもあるが、彼女と勘違いされること自体に嫌な気はしなかった。
しかし、隣に座っていた大柄な男子生徒は勢いよく立ち上がった。
「いや、椎名は彼女じゃないぞ! 何て言うか……友達、だな」
龍一の否定の言葉に、椎名の心はチクリと痛む。
龍一の言葉は事実であり、友達として思ってくれていることは嬉しいはずだった。それなのに、否定されたことに悲しみを覚えている自分に、椎名は少し驚く。
ただ、この気持ちが何なのかは、一度も恋をしたことがない椎名には分からず、身に覚えのない感覚を持て余していた。
「そう、なんだ。そっか……」
龍一の否定の言葉を聞き、三浦は少し安堵しながらそう呟く。一瞬、三人の間に沈黙が訪れる。しかし、改札口あたりに立っていた、同じ制服を着た女子集団の三浦を呼ぶ声によってその沈黙は破られる。
「花田くん、また教室でね!」
「あ、あぁ……」
去っていく後ろ姿に龍一は小さく返事をするが、その言葉はその後ろ姿には届かず、顔に暗い影を落としている隣の女の子だけが拾い上げていた。
龍一には一切の悪意はなかった。それどころか、三浦というクラスメイト経由で変な噂が流れないようにと、椎名を気遣っての行動だったのだ。
龍一はぱっと隣を見る。すると、悲しいような寂しいような、表情に暗い影を落とした女の子の姿が目に飛び込んでくる。そこで、さっき彼女が何かを言いかけていたことを思い出す。
「椎名、さっき何か言いかけてなかったか?」
「――え?」
椎名は龍一の問いかけでようやく我に返る。そして、彼の手に握られているスマホに視線をやる。
さっきの言葉の後に続く言葉、それは「連絡先を交換しましょう」だった。
毎日一緒に昼ご飯を食べて、仲は深まっているという確信があった。だから断わられることはないだろうと、そう思っていた。
しかし、龍一には龍一の交友関係がある。
三浦と龍一との関係性については、下級生である椎名には分からないことだが、少なくても龍一に対して悪感情を持っていないことくらいは椎名にも分かった。
自分だけじゃなく、他の人にも龍一は受け入れられ始めているという事実が、椎名の覚悟を鈍らせる。
だから、椎名は口を閉ざす。
「……いえ。何でもない、です」
それから、二人は何事もなかったかのようにホームへ向かった。ただ、そこには何となく居心地の悪い空気だけが潜んでいた。
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