第16話 お菓子作り①




 日光と摩擦熱とで蒸しかえるような熱気を帯びた線路の上を電車が走る。少し進んでは止まり、また少し進んでは止まる。そして、各駅で人を乗せては下ろしていく。


 電車内で男女一組は気まずそうに、それでいて少し嬉しそうに横並びしている。学生鞄に少し甘ったるい香りを放つスーパーのレジ袋を手にした男子は誰よりも鋭い目で電車の天井を睨みつけていた。


 ベージュ髪の少女は、そんな男子を家に招待しようとしている。その目的は――。







 クラスマッチの興奮冷めやらぬいつもの日常。龍一の周りにはある変化が起こっていた。


「花田くん、宿題やってきた?」

「……あぁ」

「へぇー、偉いね! 私、ここの問題がよく分からなかったんだー」


 クラスメイトの三浦悠里は数学Ⅱの授業で課されていた課題ページを開いて龍一の机に広げる。そこには何度も書き直したのか薄っすらと文字は見えるものの、未だに埋め切れていない箇所が一部分だけあった。


 三浦はクラスマッチの後からこうして頻繁に声をかけてくるようになった。龍一の成績が、見た目に反して優秀なのを知り、偶に分からない問題を聞きに来たりもする。


 龍一はチラッとその問題の箇所を確認して、自分の教科書を開く。


「それはこのページの証明文を参考にすると解けるぞ。ここの数字を入れ替えるだけで、ほら」

「……おぉー確かに!」


 地頭はいいのか、するするとシャーペンが進む。「証明」は確かに一見すると難しいように見えるが、定例文を覚えてしまえば後は推理するような感覚で解ける。実際に問題を解く側は、教科書に載っている一部分を弄るだけなのだ。


 解き終えた部分には綺麗な文字で埋め尽くされている。答えも間違っていない。


 龍一が頷くと、三浦は「やった!」と小さくガッツポーズを作る。龍一もその感覚は分かるので、優しく頷く。


「ありがとね!」


 三浦は手を振って自分の席に帰っていく。すると、すぐにそこには人の輪が出来てしまい、彼女の姿は一瞬で見えなくなってしまった。


「――花田はずるいと思うんだ」

「おわっ! 突然なんだよ……」


 龍一が驚いて声の方向を振り返ると、そこにはアシンメトリーな前髪が特徴の男子――佐藤が感情がすげ落ちてしまったかのような表情で立っていた。その隣には微妙な表情で笑っている須郷の姿もあった。


「何気に頭いいし、運動もできるだろ? 背も高いしさー、なぁずるくね?」

「佐藤が勉強できないのはやってないからじゃん。まぁ、背が高いのは羨ましいけどなー」


 須郷の言う通り、佐藤の成績が低いのはあまり勉強をしていないからだろう。

 ただ、龍一の地頭がいいのは母の遺伝だと祖母からは聞いている。龍一を引き取ってくれたのは母方の祖母で、龍一の母は昔から勉強が出来たそうだ。そして、背の高いのは忌々しいこの顔と同じ父譲りだ。


 つまり、外側は父の遺伝が強く、内面は母の遺伝が色濃く反映されているという事だ。自分たちを守ってくれていた父の遺伝は、龍一を苦しめるものが多いのだが、自分を捨てた母の遺伝は自分を助けてくれるというちぐはぐさを龍一は感じていた。


 だからだろうか、龍一の顔を佐藤が不安そうにのぞき込む。


「何の顔?」

「いや、別に……」


 龍一はそう言いながら視線を逸らす。その視線は色々な所を経由して窓の外へと吸い込まれる。


 外は少し曇っているが、雨は降らないだろう。







「――これ、お菓子作ってきました!」


 埃っぽい場所には不釣り合いな綺麗な笑顔。彼女と出会ってからまだ1か月くらいしか経っていないはずなのに、その笑顔はどんどん魅力的になっていた。


 椎名はその愛らしい笑顔を浮かべながら透明な袋に入ったクッキーを龍一に差し出す。女の子っぽい可愛らしくデコレーションされた袋には、形が良く、既製品と言われても疑わないだろうほど綺麗な円形のクッキーが見え隠れしている。


「……え、椎名が作ったのか?」

「はい! 私、お料理はあんまり得意じゃないんですけど、昔からお菓子作りは大得意なんです!」

「へぇー、お菓子作りか……。オーブンが無いから、俺はしたことがないな」


 龍一は毎日料理をしているため、料理の腕はかなり上達しているのだが、如何せんあの古いアパートにはオーブンがないためクッキーなどのお菓子作りには挑戦したことがなかった。


 龍一は椎名からお菓子の入った袋を受け取って封を開ける。すると、甘く上品な香りが溢れ出してくる。見るからに美味しそうなそれを一枚、袋から取り出して口の中に入れる。


「……あ、うまい」


 サクッとした触感と程よい甘さ。見た目にも凝っており、円形や四角形のシンプルな形の物もあれば、クマやネコなどの動物の形をしたものもある。


 龍一は一つ、また一つと口に運ぶ。甘いのにくどくなく、食べていても飽きがこない。


 夢中で食べている龍一を見つめながら、椎名は嬉しそうに微笑む。


「作ってきて良かった……」


 本当に小さな、誰にも届かないその呟きは、埃っぽい踊り場に出来た影に消えていく。ただただ幸せな気持ちを抱きながら、目の前の一つ上の青年を見つめ続けていた。


 袋の丁度半分を食べ終えた龍一は、ぱっとその手を止める。そして、急に「うーん」と考え込みだした。


「これだけうまいなら、自分で作るのもありだな……。いや、オーブンを買う金も無いし、何よりあのアパートにそんなスペースも無いしな……」


 お菓子の魅力に取りつかれた青年は脳内であれこれと考え始める。オーブンはそこまで高級な品と言わけではないのだが、如何せん龍一個人のお金はほとんどない。祖母が残してくれたお金は学費と食費、そしてアパートの家賃などの生活部分にのみ使い、不必要な買い物は一切していない。


 大学受験まで考えると、かなり切りつめてもギリギリだろう。勿論、アルバイトなども考えてはいるのだが。


 そんな龍一の唯一の趣味と言えるのが「料理」だ。生活に必要だからと始めた料理だが、やはり毎日食べるのなら美味しい物を食べたい。そうなると、ただ焼いたり煮るだけのような料理ではなく手順の多い物を作るようになり、それは次第に龍一の趣味となっていた。


 そんな中、新しい境地と言えるのが「お菓子作り」だった。


 しかし、お金の問題だけではなく場所の問題もある。あの古アパートに新しいオーブンを置くのは難しいだろう。それに、お菓子作りにはその他にも色々な道具が必要になってくる。


 龍一が頭を捻っていると、小さく可愛らしい女の子の声が脳内に響き渡る。


「……じゃあ、あたしの家、来ます?」

「え」


 龍一は高速回転させていた思考を停止させる。自分よりも一つ年下の女の子に家へ招待されているのだ。その事実が龍一の脳内を駆け巡る。


 鳩が豆鉄砲を食ったように、龍一は少し口を開けて呆けている。すると、少し恥ずかしそうに椎名は言葉を続ける。


「あ、あたしの家、いつもお母さんいるし、その、道具とかも揃ってるし、その――」


 そこで椎名は言葉を切る。母にも紹介したい、椎名の発言の後にはその言葉が続くはずだった。しかし、恋愛初心者である椎名でも、その言葉が持つ意味は理解していた。


 目の前の、少し強面の青年がどんな返事をするのか、少し知りたいという気持ちもあったが、それで拒否されたらものすごく落ち込んでしまう。そのため、その後には何も言葉は続かなかった。



 勿論、龍一はそんな椎名の気持ちなど知りようもない。ただ、彼女に少なくとも両親に会わせられるほどには信頼されているという事だけは伝わっており、龍一の心臓は大きく動く。


「行っていいのか?」


 龍一はそう尋ねる。すると、椎名はぱっと顔を上げて嬉しそうに微笑む。


「はい! 花田先輩の作るお菓子も食べてみたいです!」


 天使のような笑顔が咲き誇り、少し暗い踊り場を明るく照らす。

 今日の放課後、龍一には大事な用事が出来たのだった。


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