第4話 ラブレター①


 暗い公園のブランコで、小さな子供が泣いている。

 顔は思い浮かばない、ただただ小さな女の子。小学生2年の男の子は、その光景を目にした。


 今頃料理を作っているであろう祖母と古いアパートのキッチンが彼の脳裏に浮かんでいる。

 暗くなるまで遊んで、もうすでに怒られてしまうかもしれないが、出来るだけ早く帰って心配させたくないという気持ちが彼を急き立てる。

 しかし、眼前の光景に、コンクリートに足が引っ付いてしまったような感覚をおぼえる。


 手には、祖母から貰ったお小遣いで買ったレモン味の飴玉が二つあった。少ないお小遣いは大概その飴玉に消えていく。


 ゆっくりと歩みを進める。

 女の子の泣き声とギコギコという鉄の擦れる音が耳に届く。


 泣き顔は嫌いだ。


 男の子がブランコの前までたどり着くと、泣いていた女の子は顔を上げる。

 顔は見れない。でも、泣き声がこもっていないから、その子が顔を上げたことはすぐに分かった。


 男の子は少し日に焼けた腕を少女の前に突き出して、握っていた掌を開く。

 その小さな掌には一粒の飴玉があって、少女はすすり泣きながらもそれを受け取る。男の子はもう片方に握られていた飴玉を小袋から取り出して口に放り込む。


 酸っぱい。

 独特の酸味が口中に広がって、その刺激が体を震わせる。この体の震えがたまらなくて、何か嫌な事があってもそれを忘れさせてくれる。

 友達に嫌われたって、家族の事で影口を言われたって、この飴玉一つで、全て。


『レモン、すっぱい。でも、おいしい!』


 ブランコの女の子は可愛い声でそう言った。顔は見れない。でも、声だけでその子が可愛いだろうと想像できた。


 初めての恋の味は、少し酸っぱかった。







 古いアパートの一室。

 仏壇の前に正座する男子高生は、重く閉ざされた瞼をゆっくり開ける。すると、若い頃の祖母と会ったこともない祖父の写真が視界に飛び込んでくる。

 もし死んだら、これを遺影にしてと寂しげに笑う祖母の笑顔が脳裏に浮かんだ。


「……おはよう、ばあちゃん」


 たった一人のこの部屋で、龍一は優しく微笑んだ。答えが返ってくることはないと知っていても、毎朝決まって仏壇の前に座る。

 もう2年も続けている龍一の日課だった。


 そそくさと立ち上がり、キッチンへ向かう。


 古いアパートでIHではなくガスコンロが設置されており、ボボボボッという独特な音共に青い炎がフライパンを熱する。


 普段使う丸いフライパンと卵焼き用のフライパンを同時に熱し、卵焼きとウィンナーと野菜の炒め物を同時進行でこなすと、昨日仕掛けておいた炊飯ジャーを開く。

 カチッというボタンの音が響くと、勢いよくジャーの蓋が空いて真っ白な蒸気が立ち込める。

 1段目にふっくらと炊けた白米を弁当箱に敷き詰めて、2段目にはおかずを所狭しと詰めていく。ちょっと隙間が出来てしまったので、冷蔵庫の中からプチトマトと2つ取り出して詰め込む。


 我ながら良い出来だ。

 2段の箱に敷き詰められた昼食を眺めて、龍一は満足する。


 黄色、白色、緑色。それを引き締めるプチトマトの赤。色合いも鮮やかで、非常においしそうだ。

 といっても、ただ孤独に食べるだけなので、これを誰かに見せることは無いのだが。


 弁当箱に蓋をして素早く包むと、学生鞄の底に敷き詰める。

 教科書類は、おそらく今日配られるだろうから、持っていくものは弁当と筆箱、後は財布などの私物だけだ。

 比較的軽い学生鞄を引っさげて、くたびれたスニーカーに足を突っ込む。


 このスニーカーもそろそろ寿命だな。

 今まで何度もそう思いつつ、一向に買い替えていない。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に、龍一の声は消えていく。暖かい風が吹き込むボロアパートは、新しい風を受け入れて古く冷たい風が外へと押し出した。







 騒々しい教室に辟易しつつ、机に突っ伏して時間を過ごす。


 ひんやりとした机の冷気が、ほんのり熱い龍一の頬を冷ましている。

 周りは、今朝の下駄箱での一件で色めきだっている。机の冷気は龍一の体温を吸い取って、次第に温もりを浴び始める。


 龍一はチラッと目を開けて、自分の右のポケットに視線をやる。

 そこには、龍一の頬を熱くさせるものが入っていた。







 龍一はいつもの様に下駄箱で靴を脱ぎ、上靴に履き替えようとする。

 くたびれたスニーカーを自分の下駄箱に入れようとすると、白い紙質の何かがあることに気が付いた。龍一は恐る恐るその紙に手を伸ばす。


 健全な男子高校生ならば、下駄箱に入れられた白い紙を見て何を連想するかは想像に難くない。

 龍一の指がその紙に触れた瞬間、後方から声がかかる。


「花田先輩、お、おはようございます!」

「お、おわ!」


 龍一は突然の挨拶に奇声を上げながら振り返る。そして、同時に触れた紙がひらひらと宙を舞って、龍一と元気な挨拶をくれた小さな後輩の間に舞い降りる。


「あれ、何か落ちまし――」

「あ、あー!」


 紙を拾い上げようとする少女の言葉を遮って、龍一は急いで紙に手を伸ばした。そして、ベージュ色の髪の女子生徒よりも先にその紙を手にすると、右のポケットに勢いよくしまい込む。


「何でもないぞ! うん、何でも」

「そ、そうですか。えっと……」


 少女の視線は右のポケットに釘付けになっている。龍一からしても、自分の行動が異常だったことは理解している。


 ひそひそ。

 周囲の生徒たちが龍一たちを見て何やら小さな声で会話を始める。龍一はその光景を見て、また始まったと辟易する。


「その、なんだ、挨拶出来て偉いな。じゃ、じゃあ」

「え、あの――」


 龍一はそう言い残して走り去る。

 少女はまだ学生用の革靴を履いていて、すぐに追いかけることもできずにその場に立ち尽くしていた。


 大きな背中は早足で階段を駆け上っていく。その背中を見送りながら、少女は小さな声を漏らす。


「……さっきのって、ラブレターだよね?」


 何とも言えない、胸の痛みが少女を襲う。

 この胸の痛みが何なのか、少女はまだ知らない。そして、少女が悲し気な表情を浮かべていたことを、階段を駆け上がる龍一は知りようもなかった。







 チャイムが鳴ると同時に、元気な男子連中は勢いよく教室を飛びだしていく。

 その男子連中にお調子者で昨日学級委員に立候補していた坊主頭の須郷が入っていなかったのは意外だったが、他の連中はもれなく含まれていて、昼のパン争奪戦駆けだしていった。


 さっきの授業でお腹が鳴っていたのを佐藤とかいうチャラ男にいじられていたから、須郷も当然その中に入っているものだと思っていたが、彼は机に突っ伏して動こうとはしない。

 まるで朝の自分の様だとその光景を一瞥し、龍一は青い弁当包みを握り締めて教室を出ていく。


 教室で弁当を食べないのは、自分の為でもあり他の生徒への配慮でもあった。

 自分がいると、他の生徒たちは楽しく弁当を食べられない。そして、ひそひそと噂話をされながらだと、自分も楽しく食事ができない。

 正に百害あって一利なしという状況だ。


 お昼休み、龍一は決まって北校舎へ向かう。南校舎は一般教室が密集していているが、北校舎は閑散としている。

 北校舎の階段を上り、屋上へ出る踊り場に腰を下ろす。


 桜ケ丘高校は屋上へ出ることを禁止している。故に、屋上の出入り口にある踊り場には誰も来ないというわけだ。


 龍一はようやく一人になれてホッと一息をつく。そして、徐に右のポケットから一枚の紙を引っ張り出す。


『今日の放課後、体育館裏でお待ちします』


 白い紙に綺麗な文字でそう書かれていた。女子特有の丸文字ではないが、相当に綺麗で読みやすい文字。


 これってラブレターなのか。

 龍一はじっと紙を眺める。しかし、幾ら紙とにらめっこをしたところで、その紙が龍一の疑問を払拭してくれるわけもなく、ただただ時間だけが過ぎていく。


 龍一は白い紙の隅から隅までくまなく睨みつける。

 正直、誰かに好かれるような顔ではないし、こんな悪い噂が充満した校内で、誰かが自分を好いてくれるとは思えなかった。


 そうすると、新入生か?


 そこで一人の女の子が頭に浮かぶ。

 ベージュ色の髪に自分と頭一個以上の身長差がある、朝下駄箱であった女子生徒。しかし、龍一はすぐにその考えを否定する。


「とりあえず、放課後に行くしかないか」


 龍一はそう呟きながら、紙をポッケに突っ込んだ。

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