第3話 新生活③



「――って人なの。しいちゃん、みっちゃん、誰か分かる?」


 一人の女子生徒は首をコテンと傾けてそう尋ねる。

 少し明るいベージュ色の髪は少し波打ち、新しい生活を始める期待感から綺麗にセットされていた。

 女子の中でも低い背丈に小さな顔。その小さな顔の半分を占めているのではないかと錯覚させるほど大きくぱっちりとした瞳は彼女の純朴さを物語っている。左胸には正門で手渡された桜を模したコサージュが付けられている。


 1年1組の教室は、小さなグループが所々に形成されていて、チラチラと周囲を見渡しつつも中学の同級生同士で会話に花を咲かせていた。


 椎名こころも同様で、中学時代の友人である、しいちゃんこと三田村詩乃とみっちゃんこと高野美穂の三人のグループを作っていた。

 しかし、会話の内容は非常にショッキングな内容であり、詩乃と美穂は微妙な表情を浮かべていた。



 こころは今朝、電車の中で痴漢の被害にあった。

 体を触られて、恐怖で声も上げられない状態であったが、犯人は突然その手を離した。

 こころがゆっくりと後ろを見ると、同じ高校の制服を着た大柄な男子生徒と中年男性とが向かい合っている光景が見えた。

 たった一言ずつ会話を交わすと、中年男性は逃げるように電車を出て行き、残った男子生徒は訝し気な表情でその後ろ姿を見ていた。


 こころはほっとした。

 小学、中学は家から近かったこともあって、歩いて学校に通っていたのだが、高校はそうもいかず、電車で通学することとなった。両親は車で送迎しようかと提案してくれていたが、こころは両親にそんな負担をかけたくなくて電車通学をすると決めた。


 しかし、すぐにそれを後悔することになる。

 登校初日から痴漢に遭い、目には大粒の涙が溜まっていた。


 だからこそ、その男子生徒の存在はとても嬉しかった。気づいたら、こころはその男子生徒の袖を引いていた。


 大柄な彼は少し驚いたようにこころを見た後、すぐに視線をそらした。

 こころがお礼を言っても、視線を合わせようとはせず、ただ「偶然だ」というスタンスを取り続ける。そんな彼に、こころはどこか安心感を抱いた。


 ポロリ、涙が零れる。安心感から、堪えていた涙が溢れ出したのだ。

 ポケットからハンカチを取って涙を拭う。ハンカチと肌がすれる音が自分の耳に届く。


 しかし、その瞬間その男子生徒は急いで電車を降りてしまった。

 制服から見て、同じ高校に通う生徒であることは確かであり、降りる駅はまだ先だ。

 こころが声を上げた時には既に扉は閉じようとしていて、大きな背中はその扉によって消えていった。



 こころは彼に改めてお礼が言いたかった。しかし、分かっているのは顔と背丈と制服だけ。

 後は、周囲の人が彼が居なくなった途端に噂をし始めた「棘の龍一」というフレーズだけだった。


 だから、その人の特徴を小学校からの友人である詩乃と美穂に尋ねたわけだが……。 


「――『棘の龍一』って、2年生の花田龍一って人のことでしょ? なんか、めっちゃ怖い先輩で、何人も病院送りにしたって噂だよ」


「あ、それうちも聞いた。父親が暴走族で、そっちにも顔が利くって」


 二人は微妙な表情を浮かべながら、今持っている情報をこころにもたらす。

 しかし、今朝助けてもらった恩人とは相いれない内容に、こころは素直に首を縦にはふれない。


「そ、そんな人じゃないもん。優しい人だもん」


 こころは精一杯の否定を見せるが、当人の情報を一切持っていないこころの主張が二人の情報を覆せるわけもなく、詩乃と美穂は同じような顔で互いの顔を見合わせる。


「……まぁ、本当の所は分からないけど、火のない所に煙は立たないって言うし」

「違うもん!」


 詩乃の言葉に、こころは強く否定する。それを見ながら、美穂は小さくため息をつく。


「はぁ、こころがこうなったら、うちらじゃどうしようもないよ」

「そうだね……。じゃ、一回会ってみれば? お礼言って、それで終わりにすればいいじゃん。

 2年生って一時間目で終わりでしょ? 今からちょっと抜ければ、丁度会えるんじゃない?」


 詩乃はその場を落ち着かせるために、あえて無理難題を提示する。今は教室で待機する時間で、2時間目の授業が始まる頃に入学式が始まる。そのため、今なら多少の時間はある。


 しかし、小学生の時からこころの事は知っている。男子に興味が無くて、そう言うことに積極的なタイプでもない。詩乃が知るこころなら、戸惑いながらその案を退けるだろうと思っていた。しかし、この提案が予想だにしない状況をもたらす。


「そっか。うん、あたし行ってくる!」

「え……うそ、ホントに?」


 こころは勢いよく席を立って教室を出ていく。

 あっけにとられた詩乃と美穂は、友人の意外な積極性に驚きつつ、すぐにその後を追う。廊下にはクラスに友人がいなかった生徒が他のクラスの友人と談笑していて、思ったよりも沢山の人がいた。


 詩乃たちは早足で階段へ向かう友人の背中を追う。すると、階段を視界にとらえたその瞬間、こころは足を止めた。


「あ、居た……」


 こころの呟きを耳にして、詩乃たちはぱっと階段に視線を送る。そこには、190近い長身で学生鞄をけだるげに肩のあたりで握り締める男子生徒が居た。まごうことなき、「棘の龍一」だ。


「やっぱり噂の先輩じゃん。ねぇ、やっぱりやめた方がいいと思うんだけど」

「――詩乃が焚きつけたんでしょ!」


 美穂は詩乃を糾弾する。いつも穏やかな美穂らしくない強い語気を背中で感じつつ、こころの足は自然と動いていた。


「――あの! 花田先輩!」


 階段の下。「棘の龍一」がこころを見る。


 後から「ひっ」という小さな悲鳴が聞こえる。ちらっと後方を振り返ると、美穂が恐怖におののく姿が見える。しかし、こころからすれば何がそんなに怖いのか分からない。


 少し吊り上がっていて細目の目だけれど、それは元々の顔だ。それに、顔たちはワイルドだしどっちかというと……。


 突然、胸が締め付けられる感覚を覚える。鋭い視線が交わって、ドクンと大きく脈を打つ。


「……あぁ、今朝の」


 視線をそらされても、こころの胸の高鳴りは止まらない。今まで、こんな動悸を感じたことはなく、こころは動揺する。


「あの、その……」


 なんていえばいいのか。


 助けてくれてありがとう、そう言いたい。でも、それよりもどうして電車を出ていってしまったのかが気になる。

 何か自分に非があったなら、先に謝るべきだろうから。そんな錯乱した頭でこころは一つの言葉を選びだす。


「……大丈夫でした?」


 色々な意味を含む言葉だ。遅刻はしなかったか、自分に非はなかったか、そして話しかけてもいいのか。

 そんな色々な意味を孕んでいた。

 しかし、眼下の彼には響かない。


「別に大丈夫だ」

「え、あ」


 こころは遠くなる背中を追う。

 大きな歩幅に男らしさを感じつつ、自分の弱さを痛感する。それでも、何とか足を動かして彼の背中を追う。


「さっきはホントにありがとうございます。その、花田先輩が何もしてなくても、あ、あたしは助かったので!」

「……もういいよ、別に」


 こころの必死な声にも、棘のような刺々しい言葉だけが返ってくる。

 その声には――迷惑だ、という事を暗に伝えようとしているように感じる。こころは必死に動かしていた足を止めて、小さな声を漏らす。


「あの、……あたし、迷惑ですか?」


 こころの表情は曇っている。棘のような彼も、流石に振り返ってこころの顔を見る。鋭く、強い視線が交わって、またこころの心臓が反応を見せる。たった数秒だけの時間が、永遠に感じた。


 しかし、止まった針が動き出すように、決定的な言葉が放たれる。


「……あぁ、そうだな」


 肯定。

 それはつまり、自分を突き放す言葉であった。

 次第に開いていく距離は、こころには長くて深い溝の様に思えた。

 大きな背中が次第に小さくなっていく。目の前には絶対に越えられない溝があって、落ちてしまったら非力なこころでは這い上がってくることは出来ないだろう。


 理性では分かっている。しかし、本能はそれを是としない。


 磁石の様に、こころの体はあの背中に吸い込まれる。目の前に大きな背中があって、こころの鼻腔を柔軟剤に香りが吹き抜ける。そこでようやく、自分の手が大きな背中に触れていることに気が付いた。


 驚いた顔が振り返る。それは棘のような先輩の、あどけない表情。


「――あの! あたし、椎名こころって言います! その、あの……また明日!!」


 顔から火が飛びだしそうだった。

 心臓が張り裂けそうなのは、今廊下を激走しているからなのか、大きな声を出して恥ずかしいからなのか、それとももっと別の理由なのか。もはやこころには分からなかった。



 ただ一つ、「棘の龍一」に対してだけ、この心臓は反応することだけはよく分かった。


 こころは胸の鼓動を感じつつ、階段を駆けのぼった。

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