第十章 1

「カイロス! ホーラ!」


 勝手口から庭に出たメルローズは、大声で名を呼ぶが返事はない。

 顔を顰めつつ辺りをゆっくりと見回したところで、息子の愛犬が芝生の上で寝そべっているのを見つけた。


「シトラー。カイロスたちがどこにいるか知らない?」


 真っ黒な狼に似た体格の犬であるシトラーは、しばらく逡巡した後、立ち上がって尻尾を振ると、メルローズを案内するように歩き出した。

 シトラーは息子カイロス以外には懐かない犬だが、メルローズの言うことはきちんと聞く。この家に迷い込んできたときから、しつけが必要ない賢い犬だった。主人であるカイロスとは別に餌をくれる人にも従順であるべきだと、この犬は理解しているようだ。

 どこへ向かうのかと思えば、いまはほとんど使わなくなった実験室だった。

 カイロスが生まれる頃にはほとんど魔神召喚の実験をしなくなった父は、近頃はもっぱら書斎で魔術に関する論文を執筆している。最近では天主教による魔術師狩りも減り、魔術師たちも迫害されなくなってきた。それに伴い、都の研究者たちからクラレンスに戻ってこないかと誘いの手紙が頻繁に届くようになった。いまではフロリオ島での暮らしにすっかり馴染んだクラレンスは、学会さえも出席せず島に籠もっているが、あいかわらず時折論文だけは送っているのだ。

 あとは自分の研究を後継に伝えるため、孫の教育にいそしんでいる。


「カイロス、いるの?」


 扉を叩いてから実験室の古びた木戸を開ける。

 案の定、白墨を手にして床に魔法陣を描いている息子の姿があった。


「またこんなところに籠もって」


 腰に手を当てメルローズがぼやくと、床から顔を上げたカイロスは「見て」と自分の足下を指で示した。


「これが東風の魔神の魔法陣。こっちが闇の魔神の魔法陣」


 白墨で描いた線を誇らしげに説明する。


「たくさん覚えたのね。でも、もうお夕食だから、今日はそれくらいにしてはどうかしら」


 七歳になるカイロスは、物心ついた頃から魔術に多大な興味を持つ子供だった。

 容姿は父親のアルジャナンにそっくりで栗色の髪と鉛色の瞳をしている。いずれは偉大な魔術師になるに違いない、といまから祖父であるクラレンスの期待を背負っている。

 もっともメルローズは、あと十年もすればカイロスの興味も魔術からよそに移るだろうと考えていた。カイロスはいくらか精霊を視ることができるようだが、子供のうちは多少なりとも魔力を備えていても、成長するに従って魔力は失う者も多い。できれば魔術の勉強よりも学校の勉強をもっと熱心にしてほしいものだ、とメルローズが愚痴をこぼすたび、クラメンスとアルジャナンは「まぁまぁ、カイロスはまだ七つだから」とカイロスをかばう。

 娘のホーラは五歳だが、魔術にはまったく見向きもしないし、魔力もほとんどない。可愛い物と人形遊びが大好きな子供だ。


「お祖父様に見ていただくのは明日にしましょう。今日はもう、暗いわ」


 すでに周囲は薄暗くなりつつある。

 こんな暗い小屋で魔法陣を描いていては目が悪くなるのでは、とメルローズは心配になった。


「うん」


 元気よく返事をすると、カイロスは立ち上がり、小屋から出てきた。

 魔神の名を息子につけたのは、彼女の夫だ。

 最初から、息子がうまれたらカイロスと名付けると決めていたらしい。

 お父さんそっくりな息子さんね、と周囲から誉められるたび、なぜか彼女の夫は苦笑している。

 娘のホーラはメルローズに似ているというよりは、彼女の母親に似ている。病弱なところまでは似なかった。滅多に風邪も引かない健康優良児だ。


「僕、大きくなったら立派な魔術師になるよ」


 実験室の扉を閉めると、母親と手を繋いで歩き出したカイロスが決意を告げる。

 シトラーはおとなしくカイロスの隣をぴたりと寄り添うように歩く。尻尾がゆらゆらと揺れている。


「お祖父様と約束したんだ。僕がエルファ家を再興させるって」

「それは、楽しみだわ」


 初めて聞く話だが、嬉々として語る息子の手を握り返すと、カイロスはにかっと笑った。

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