第九章 5

「先生の後継者は僕だっていう君の考えは間違っているよ。研究なんて、資料さえ残しておけば百年後か二百年後に偶然それを見つけた誰かが引き継いでくれるかもしれないけれど、血は途絶えさせたらお終いなんだ。それに僕は、君はこの島を出て行くと言うなら先生を残しても君を追い掛けるしかないだろうけど、いまのところは出ていく気はないだろう?」

「な、なんで?」


 半分恐慌状態に陥ったメルローズは、アルジャナンの話が理解できなくなっていた。

 島を出て行く気がないといえば嘘になるが、そういう返答を彼が期待しているわけではないことだけはわかった。


「君は、ちょっと目を離すと自分の身を顧みずに行動する人だってことが、よくわかったから」

「えぇ? どういうこと?」


 そんなに心配されるようなことをした覚えがない。

 アルジャナンはなにか勘違いしているようだ。


「研究の手伝いばかりしていないで、君のこともちゃんと見ていないと駄目だってことを痛感したんだ」


 ますます意味不明だ。

 アルジャナンもかなり疲れているのかもしれない。

 そういえば、昨日もほぼ徹夜で父と二人で研究をしていたようだ。


「アルジャナン。あなたの言っていることがいまいちよくわからないけれど、とりあえずお風呂に入って、食事をして、落ち着いてからこの話はしましょう」


 ひとまずは宥めておくことにした。


「そうだね。じゃあ、僕は先生を連れて戻るよ」


 頷いたアルジャナンがようやく腕を放してくれた瞬間。


「――っ!」


 自分の頬にアルジャナンの唇が当たったことで、メルローズの混乱は頂点に達した。


「お父様! アルジャナンがおかしいわ! 変な精霊に憑かれてるわよ! どうにかして!」


 思わず相手を突き飛ばすと、まだ小屋に座り込んでいる父の元へとメルローズは駆け出した。


「おかしいって……さすがに傷つくな」


 ひとり取り残されたアルジャナンは苦笑を浮かべる。

 山査子の垣根の向こうに目を遣るが、誰も訪ねてくる気配はない。

 遠くから教会の鐘の音が響いてくるのも、いつもどおりだ。

 西の空が赤いのは夕陽に染まっているだけだし、風はかすかに潮の匂いを含ませて吹いているだけだ。

 古びた石造りの家と、小さな畑。

 クラメンスとメルローズがこの島に移ってきてからのつつましい暮らしが、形を変えずに目の前に存在している。

 なにもかもが昨日までと変わらない平穏な日々。

 自分の腕に視線を向けたアルジャナンは、左腕の白い跳ねたような塗料の染みを指でなぞった。


「カイロス。君は、これで先生との契約を果たしたのか?」


 静かに問い掛けるが、返事はない。

 魔神カイロスはクラメンス・エルファによって召喚されなかった。

 ゆえに、祓魔師イアサント・ブーランジェを始めとする天主教の聖職者たちはこの島を訪れないだろう。

 時を操る魔神はメルローズを生き返らせるため、契約の直前まで時間を遡った。

 それでもアルジャナンの中には、カイロスが取り憑いていた間の記憶が残っている。

 メルローズはなにも覚えていないようだが、アルジャナンの手には生暖かい彼女の血の感触がまだ残っていた。

 目の前には、カイロスが召喚された後の焦土のような景色ではなく、昨日となにも変わっていない光景が広がっている。

 明日もその次も、来年も再来年も、きっと今日と同じ景色を見ることができるだろう。

 魔神カイロスがこの場所に召喚されなかったことで、今日も明日も代わり映えのしない平穏な日々が繰り返されるのだ。

 クラメンスは魔神カイロスの召喚に成功してはいない。

 それなのに、アルジャナンはカイロスに身体を奪われ、メルローズとともに聖山シャンティの僧院を目指した日々と、彼女の命が消えた瞬間の生々しい喪失感を忘れることはできずにいた。


「なぜ、僕だけが覚えているんだろうか。僕はなにもできなかったのに」


 カイロスに身体を奪われている間、いくらアルジャナンが叫んでも、その叫びがカイロスに届くことはなかった。

 あの魔神がクラメンスやメルローズを生き返らせたのは、そうしなければ契約が果たせなかったからだ。アルジャナンの訴えに応えたわけではない。メルローズはなにも覚えていないようだし、これからもきっと思い出すことはないだろう。


「悪い夢を見ていたような気分なのに、夢だと思い込めないのだから酷いもんだよ、カイロス」


 すべての時間が巻き戻されたわけではない。

 時の魔神は、クラメンスに召喚され契約した痕跡をわずかながら残している。

 ならば、いずれは契約を果たそうとする魔神とまた会う機会があるかもしれない。

 アルジャナンには、そんな予感がした。

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