第九章 3
「お疲れ様、メル」
全身汗だくになったアルジャナンが、さすがに暑さに耐えかねたのか、襟元のタイを緩めながら出てきた。
振り返ると、小屋の中ではクラレンスが床に座り込んでいる。珍しく倒れ込むほどではなかったらしい。なにが間違っていたのか、と魔法陣を眺めながらぶつぶつぼやいている。
(あれなら大丈夫そうね)
父の姿に安堵した途端、なにが大丈夫なのだろうかと自分自身の呟きに首を傾げた。
「アルジャナン、明日は鶏小屋の修理をして貰うわよ。狐に金網を破られたままになっているところを、いまは板で押さえているけれど、いい加減直して欲しいの」
「いいよ」
珍しく素直にアルジャナンが頷いた。いつもは不承不承といった顔なのに。
「あと、畑の草抜きも手伝って欲しいの。そろそろ土を耕しておいて、ひよこ豆を蒔く準備をしたいの」
「そうだね。手伝うよ」
額に浮かんだ汗を袖口で拭ったアルジャナンは、ふと思い出したように袖を捲り上げた。
どうしたのかとメルローズが目を遣ると、アルジャナンは両腕をまじまじと凝視している。そこにはいつの間に塗料が飛んだのか、わずかに白い塗料が付着していた。
「石鹸で洗った方がいいわよ。肌に染みついてしまうと、しばらくは取れなくなってしまうから」
メルローズは持っていたハンカチで腕を拭いてやったが、当然というべきか、厄介な塗料は簡単には取れなかった。
「風呂に入ったときによく洗ってみるよ」
答えるアルジャナンは、やはりいつになく素直だ。
普段ならメルローズはお節介だと適当にあしらわれるのに、どうしたのだろうか。
思わずアルジャナンの顔を訝しげに眺めてしまった。
もしかしたら異臭のせいで気分が悪くなっただけではなく、どこかおかしくなったのかもしれないと心配になったのだ。
「僕の顔がどうかした? もしかして、顔にまで塗料が付いている?」
「ううん。顔には付いていないわ」
鉛色の瞳も形の良い鼻もいつものアルジャナンだ。
ただなんとなく、なにかが違う気がした。
「あ、そうそう。わたし、夕食を作りかけていたんだわ。アルジャナン、お父様を連れて帰ってきてくれる? できれば夕食の前にお風呂に入ってしまって欲しいの。その臭いを食堂にまで持ち込まないで欲しいわ」
「わかったよ」
目を細めてアルジャナンが微笑んだので、メルローズはますます怪しんだ。
いつもと態度がかなり違う。なにか妙な精霊でも彼に取り憑いたのだろうか、と心配になってきた。
「アルジャナン……大丈夫?」
「なにが?」
「その……気分が悪いとか、具合が悪いとか……お父様に診て貰った方が良くないかしら」
魔術師であるクラレンスは、薬剤師であり、精霊使いでもある。おかしな精霊に取り憑かれているのであれば、祓うくらいならば造作ない。
「どこも悪くないよ」
アルジャナンは疲れた様子だったが、顔色は小屋の中で見たときよりもかなり良くなっていた。
小屋が薄暗かったせいで青白く見えていたのかもしれない。
「そういえば、いつもならお父様の実験が失敗するとあなたまで暗い顔をしているのに、今日はなんだか違うわね」
どちらかといえば、嬉しそうだ。
魔術師の弟子が、師匠の失敗を喜ぶなんてことがあるのだろうか。
「そうかな。でも……そうだね。今日の実験は失敗して良かったと思うんだ」
アルジャナンの意外な発言に、メルローズは目を剥いた。
「失敗して良かったって、どういうこと?」
「魔神カイロスを召喚できなくて、良かったってこと。僕が思うに、魔神の召喚はとても危険なことだから、今後はもっと慎重にすべきだと先生には進言してみるよ」
「どうして?」
「実験に失敗するたび、先生の魔力も消耗しているだろう? きっと先生の実験は命を削って行われていると思うんだ。だから、これからは先生の身体のことも考えて、しばらく召喚は控えることにして、もう少し安全な実験を試すべきだと僕は考えているんだよ」
「……ふうん」
アルジャナンが言っている意味がよくわからず、メルローズは生返事をした。
魔術の話はいつもよくわからない。薬草ならメルローズにもわかるが、精霊はたまに気配を感じるだけで見えないし、魔力なんて微塵も持っていない彼女はいつも話題についていけずにいる。
「メルだって、先生には長生きして欲しいだろう?」
「それは勿論、そうよ」
「先生には僕から、もっと身体を大事にして、実験を控えるように頼んでみる。先生だって、長く研究を続けるためには健康であることが第一条件だってことくらいはご存じだろうけど。それに、先生だって自分の孫の顔くらいは見たいだろうし」
「……それはどうだか知らないけれど」
孫どころか、このままだとエルファ家は断絶必至だ。
エルファ家の魔術はアルジャナンが引き継いでくれるかもしれないが、その後はアルジャナンの後を継ぐ弟子も探さなければならない。このフロリオ島で生活の糧にもならないような魔術を学びたいと考える酔狂な人物が現れるのだろうか。それとも魔術なんてものもはこのまま時代の変遷とともに消えていくものなのだろうか。
(いまは十年、二十年先の心配よりも、今夜の夕食を作らなくちゃ。お腹が空いたままでは、十年後どころか明日だって迎えられないわ)
現実に目を戻してメルローズが家に向かおうとしたときだった。
「メル、僕の話をきちんと聞いてる?」
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