第九章 2

 魔力を持っているクラレンスが描く魔法陣は、彼が組み合わせた魔方式どおりに動き、大地の上から下、世界中の隅々まで魔神の探索を行っているはずだ。いま、この小屋を中心として、魔神カイロスを探すため、目に見えない網の目のような魔法陣が魔法の届く世界のありとあらゆる場所に広がり、魔神カイロスを捕らえようとしている。

 魔法陣の模様の中央が、盛り上がるようにしてわずかに床の上に浮き上がる。

 途端に、小屋の中の温度も高くなった。

 魔法陣が動いている間、クラレンスは自身の魔力を消費している。五十近くとなった肉体では、魔力を魔法陣に吸い取られているだけでもかなりの労力を要する。彼は両足を踏ん張っているが、なんとか立っているだけで精一杯の様子だ。額からは大粒の汗が滝のように流れており、目の中にまで流れ込んで視界を遮ろうとしている。

 その横でアルジャナンは魔法陣を凝視したまま、口を一文字に引き結んで立っている。

 後で記録を残すのが彼の仕事であるため、ひたすら熱心に魔法陣の動きを観察している。

 一応メルローズも魔法陣に視線を向けていた。

 床から浮かび上がった紋様はうねうねと不気味に動いている。

 この生き物のように蠢く魔法陣から、どのようにして魔神たちが現れていたのかも謎だ。魔神は普段は地下に棲んでいるとされているため、召喚用魔法陣は地に近い床に描く。

 薄暗い小屋の中でぼんやりと白く発光する紋様は、しばらく律動し続けていたが、間もなく床から浮かび上がったまま、ぴたりと動きを止めた。魔神の探索が終わったのだ。

 やれやれ、とメルローズは胸を撫で下ろした。

 魔力を費やしたクラレンスの顔は土気色に染まっている。どうせ、数秒後には意識を失い派手に倒れ込むに違いない。

 魔法陣が停止すると同時に、アルジャナンも師匠に視線を向けた。いつものことではあるが、クラレンスが直立不動のまま顔面から床に倒れるのを防ぐため、駆け寄ろうと準備をしている。


「今回も召喚は失敗だったようね、お父様」


 重々しい口調でメルローズは父が失敗したことを強調した。魔法陣が動いただけでは成功とは認めない、という彼女の意図が現れていた。


「さぁ、もう良いでしょう? 窓と扉を開けて換気するわよ」


 扉を開けると同時にメルローズは外へ出て行くつもりでいた。この臭いを全身にまとって台所へ戻るのは躊躇いがあったが、今夜の夕食を抜くわけにはいかない。どうせ父親は一度意識不明に陥ったら明日の朝まで目覚めないだろうが、塗料精製を手伝い疲れているであろうアルジャナンにはなにか食べてもらう必要がある。

 足早に扉を開くと、小屋の中に新鮮な空気を流し込む。

 一歩外に出ると、深呼吸を繰り返した。全身から塗料の臭いが漂っているが、数日間の我慢だ。


(あ、ら?)


 風に吹かれて雲が流れる空を眺めた途端、なんだか懐かしい気分になった。

 もうすっかり見慣れた景色だというのに、石造りの家と瓦の屋根、山査子の木などが目の前に広がっている。

 父がここに移り住むと決めた当時、メルローズは言葉にこそしなかったが辺境の地で暮らすことに抵抗を感じていた。

 いくら魔術師が異端者として迫害されているとはいえ、それは魔術師である父や弟子のアルジャナンだけであって、魔術などまったく使えない自分には関係ないはずだ。母方の親類たちからは、エルファ姓を捨てて母方の姓を名乗れば気兼ねなく都に住めるのではないか、と助言もされた。できればメルローズもそうしたかったが、父を血縁のないアルジャナンに押しつけるわけにはいかず、渋々フロリオ島についてきた。

 いつか結婚してこの島を出て行こう、と当時は考えていたが、結婚する前に島を出なければ島の外の男性と知り合えないことに気づいたのは最近のことだ。かといって、本土まで恋人探しに出掛けるような暇などない。


(もしかしてわたし、お父様が研究を続ける限りずっとこの島で暮らさなければならないの? そうなると結婚なんて夢のまた夢じゃないの!)


 将来は島を出て暮らすことが前提だが、魔術師である父を放り出すわけにもいかない。死んだ母からは、父のことを頼まれているのだ。魔術の研究しかできない父から魔術を取り上げることだけはしないで欲しい、とも言われている。

 魔術が恋人の父とアルジャナンは、家事などほとんどできない。アルジャナンは多少身の回りのことは自分でできるものの、研究に没頭し出すと食事も睡眠も忘れて徹夜で机に齧り付くところなど、父にそっくりだ。


(わたしはきっと、この二人の世話をしているうちに一生を終えるんだわ)


 西の空が赤く染まり始めている。

 こうやって今日も終わろうとしている、とメルローズは溜め息を吐いたが、不思議と悲壮感はなかった。

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