第九章 1

「完成したぞ。これが、魔神カイロスを召喚する魔法陣だ」


 誇らしげに胸を張り、クラレンスが嗄れた大声で二人に宣言した。

 ハンカチで鼻と口を押さえていたメルローズは、一瞬自分の意識が途切れていたことに気づいた。塗料の異臭の酷さに耐えかねて、気を失っていたのだろうか。

 床一面には魔法陣の白い繊細な模様が描かれている。

 魔神を召喚するために、父がさきほどから描いていた魔法陣だとすぐにわかった。


「さぁ、アルジャナン! 待たせたな。すぐに召喚を始めよう」


 クラレンスは意気揚々と隣に立つアルジャナンに呼びかけると、筆と塗料を入れた桶を部屋の隅に放り出す。空っぽになっていた桶は、乾いた音を立てて壁にぶつかった。


「はい、先生」


 声を上擦らせながら答えたアルジャナンは、肺一杯に塗料の異臭を吸い込んだのか軽く咳き込んだ。片手で口を押さえながら、手提げランプを天井から垂れ下がった鉤に引っかける。

 ランプが頭上に吊されただけで、薄暗い室内がほんのり明るくなった。

 その際、彼の顔色がいつになく悪いことにメルローズは気づいた。

 彼もまたこの部屋に漂う悪臭に耐えかねているのかもしれない。

 額には大粒の汗が浮かんでおり、いつになく緊張した様子だ。目眩でも起こし掛けているのではないか、と心配になる。


「メル、お前は下がっていなさい」


 室内に漂う悪臭に閉口していたメルローズは、ハンカチで口元を覆ったまま黙って頷くと、これ幸いとばかりに素早く扉の手前まで退く。

 魔法陣の前に並んで立つ魔術師である父クラレンスとその弟子アルジャナンの背中をぼんやりと眺めながら、いますぐ窓という窓を全開にして換気をしたい衝動をなんとか抑える。身体に害はない塗料だが、あまりの激臭にメルローズは失神寸前だった。

 魔神を召喚するための魔法陣を描く塗料の独特な臭いは、服や髪に付くと三日は落ちない厄介な代物だ。慣れるまでは重度の頭痛や目眩などの症状も引き起こす。

 エルファ家は町外れの、隣家まで二百歩以上歩かなければならない辺鄙な場所に屋敷を構えている。昼夜を問わず魔術の実験を行っているため、近所迷惑にならないよう配慮しての距離だ。さすがに屋敷の周りを囲むさんの垣根の外までは、塗料の異臭も漏れていないはずだが、すでに三人とも嗅覚が麻痺しているため、少々の臭いには反応しなくなっており確かなことはわからない。


「では、始めるぞ」


 まるで絵描きのように塗料で汚れた服装のまま、クラレンスは魔法陣に向かって両手を上げた。その指先にも、白い塗料がべったりと付着している。

 アルジャナンが唾を飲み込み喉を上下させると同時に、背筋をぴんと伸ばす。洗いざらしのシャツの上に消し炭色の上着を羽織り、襟元には紺色のタイを蝶結びにしただけの格好だが、まだクラレンスに比べれば見られる格好だ。そのアルジャナンも、小屋の中の暑さのせいか、額に無数の汗を浮かべている。一度だけ襟首に指を差し込んだが、タイを緩めることはしなかった。

 メルローズは、お気に入りの服に塗料の臭いがつくことだけを気にしていた。薄い黄緑色の生地に朱色の縞模様が入った生地の、足首まで隠れるスカート丈になった日常着は、まだ作ったばかりなのだ。床を歩く際も気をつけなければ、山羊皮の編み上げ靴に乾ききっていない塗料が付いてしまう。さきほど突然クラレンスが、魔神を召喚するするから手伝うように、と台所に乗り込んできたものだから、着替える暇がなかった。そのまま離れの家屋であるこの実験室に引っ張ってこられたが、夕食の準備の方が重要な彼女にとって、これほど迷惑な話はない。


(……あら? わたしって今日はずっとこの服を着ていたのかしら)


 自分のスカートの模様に目を遣り、メルローズはわずかに首を傾げた。軽い違和感を覚えたが、それがどのようなものだったのかは思い出せない。


(違う服を着ていたような気がするのだけど……そんなはずはないわよね)


 フロリオ島に移ってから、メルローズは母が生きていた当時ほど服を新調していない。比較的暖かな気候のこの島では、一年を通して気温がそれほど変わらないため、季節に応じた服はそれほど必要ないのだ。それに、新しい服を作るだけの金銭的余裕もない。いまは亡くなった母の服を自分の体型に合わせて直し、着ている物も多い。


(もしかしたらわたし、意識を失っている間に夢でも見ていたのかしら)


 立ったままで夢を見られるとは随分と器用になったものだ、と自分でも感心するが、どんな夢かはまったく思い出せない。

 誇らしげに魔法陣の前に立つ父の背中を眺めつつ、どうせ今日も失敗するに決まっている、とメルローズは高を括っていた。

 これまで、一度としてクラレンスの魔神召喚は成功したことがない。

 いつになくアルジャナンの顔が緊張で強張っている。彼は魔神が召喚されることを願って、気負っているのだろうか。気分が悪いのか、肩で大きく息をしている。両足で踏ん張ってはいるが、身体がわずかに震えている。

 彼は大丈夫だろうか、とますます心配になった。

 慣れているはずの自分でさえ一瞬意識が遠退いたくらいだ。弟子であるアルジャナンも耐えきれないことはあるだろう。

 そんなメルローズの心配を余所に、間もなく魔法陣が発動し始めた。


(いつも、ここまではうまくいくんだけどね)


 メルローズは嘆息すると、あと数分の我慢だと自分に言い聞かせた。

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