第八章 9
「うわっ! な……なんだ……?」
立ち上がりかけていたイアサントは、息もできないくらい強い風に目を閉じた。足を踏ん張る暇もなく、唸り声を上げる竜巻に弾かれるようにして広間の壁際まで飛ばされる。
広間の中は一瞬にして、竜巻に支配された。
燭台に灯されていた蝋燭の炎は、一瞬にして消えた。辺りは突如として薄暗くなる。
床に敷き詰められていた石畳は竜巻によって一気にはがされ、音を立てながら天井まで舞い上がった。
天井の梁は下からの暴風に耐えきれずに揺れ、建物全体がみしみしと音を立てる。
鼓膜を劈くくらい激しいごうごうという風の音が周囲に響き渡った。
それが数秒だったのは、数分だったのか、もっと長い時間だったのかはわからない。
竜巻は不意に、その場からかき消えた。
がらがらと石畳が地面に落ちる。
「え?」
手足が引きちぎれるような痛みが遠退いたことにイアサントが気づいたときには、耳が痛くなるような静寂が戻ってきていた。
目を開けたときには、周囲は瓦礫が散乱しており、壮麗な広間の面影もなかった。
辺りを見回してみるが、床の上には倒れるようにうずくまるラウジー司教と、預言者の骸骨しか残っていない。
「悪魔が……消えた?」
周囲を隈無く見回したが、さきほどまでいたはずの悪魔たちは消えていた。
聖賢の剣も、魔女の姿もかき消えている。
広間の中央の床石がめくれた後には固めた土が露わになり、屋根には無数の穴が空いている。
広間を襲った竜巻の凄まじさがよくわかる荒れ具合だ。
おそるおそる顔を上げたラウジー司教は、肩では荒い息を繰り返している。目は虚ろで、何が起きたのかよく理解できていない表情だ。
「これは、一体どういうことだろうか」
イアサント自分の頬を叩いて現状をしっかりと理解しようとしたが、まだ瞼からは悪魔たちの残像が消えなかった。
急激に脱力感が全身を支配する。肩を落とすと、大きな溜め息を漏らした。白い息が辺りに漂う。
ふと、頬になにか冷たいものが触れた気がして、顔を上げた。
天井に空いた穴から、白い綿帽子のような雪が音もなく降り込んできている。
石畳が剥がれて土が剥きだしになった床に、白い雪が落ちる。最初は地面に吸い込まれるように溶けて消えていた雪が、次第に白く床を染め始めた。
まるで石畳の代わりに地面を覆うように、雪は次から次へと降り積もっていく。
ここは廃墟になってしまったのだ、とイアサントは悟った。
すでに神も預言者も、この場から姿を消してしまった。彼らが再びこの場所に戻ってくることはない。神は地上を離れ、神々の世界に帰還したのだ。
天主教は永遠に神を失ってしまった。
廃墟となった広間には、すでに神の気配のかけらもない。
なのになぜか、神と預言者が在ったときよりも神聖な空気が満ちているような気がする。神の残り香さえもないのに、神を崇める気持ちが増したくらいだ。
「これが、太古より定められし世界のいまの姿なのか……?」
預言者の頭蓋骨にも雪が積もり始める。
髪や肩に降りかかる雪を払うことなく、イアサントは立ち尽くす。
血さえも凍てつくような寒さが彼を包み身体の熱を奪っても、放心状態となった彼は動くことができなかった。
ラウジー司教は床に落ちている預言者の衣に目を遣った。
絹の衣に包まれていた真っ白な骨は、雪が触れると解けるように崩れ落ちていく。やがては雪に包まれ、預言者の骸は衣を残して消えてしまうかもしれない。
「これから、我々はどうなるのだろうか」
誰に告げるでもなく、ラウジー司教はぽつりと呟いた。
「神と預言者を一度に失ってしまうとは……」
「いいえ。お姿が見えなくなっただけです。神への我々の信仰までもが消えたわけではありません。なんら悲しむことではありませんよ」
凜とした声が広間に響く。
イアサントが弾かれたように声のする方へと視線を向ける。
入り口には、黒い式服に身を包んだゲアリ司祭が立っていた。
「ゲアリ司祭!」
まさかここで姿を見ることになるとは思わなかった師の姿に、動揺していたイアサントは思わず泣きそうになる。
「神は常に我々を見守ってくださっています。これまでと変わらず。それともあなたは自分の目に見えるものしか信じないのですか、イアサント祓魔師殿?」
穏やかな口調でゲアリ司祭が訊ねる。
「……いいえ、信じます」
静かに首を横に振り、イアサントは鉛色の空が見える天井を見上げた。
神は雪に解けて姿を消しただけだ。存在そのものが無になったわけではない。
(失った物は、聖賢の剣――人殺しの剣だけだ)
イアサントは自分に強く言い聞かせた。
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