第八章 8

「その前に、封印が正しく解けているか、試し切りをしなければならないな」


 婉然と微笑むと、タラムスは聖賢の剣を預言者に向けた。


「やめろ!」


 預言者が悲鳴を上げる。


「心配せずとも、名も無き神との契約を断ち切るだけだ。もっとも、お前はすでに人としての命は終えている。契約が切れると同時に、魂はこの世を離れるだろうがな」


 死の宣告をすると同時に、タラムスは預言者の頭蓋骨を剣で切った。

 ひゅっと空気を切るような音がしたがと思うと、頭蓋骨に染みついていた魔法陣の紋章が一瞬にして消える。


「あ……」


 床に倒れていたイアサントは、激しい消失感に襲われた。

 神と預言者が、この僧院からだけではなく、地上からも姿を消したことを悟ったのだ。

 いま目の前に転がっている骸骨は、かつて預言者だった者の骨でしかない。すでに物言わぬ骨は、ただの死骸だ。

 ラウジー司教も、呆然と足下に転がる預言者の骸骨を眺めている。

 神殺しを実行しようとしていた彼も、まさかこのようにあっさりと神を失うことになるとは想像していなかったのだろう。


「さて、この剣の本来の力を確認したところで、お次に取りかかろうか」


 カイロスを振り返ったタラムスが、ゆっくりとした足取りで戻ってくる。

 メルローズはすでに喋る気力を失っていた。


「駄目だ……駄目だ駄目だ駄目だ!」


 目にほとんど光がないメルローズの身体を抱きしめ、カイロスが叫ぶ。


「おや? 君、カイロスではない、ね?」


 わずかに目を見開き、タラムスが確認する。

 カイロスの性格を知る彼は、取り乱したとしてもカイロスがこのような態度を取らないことを知っていた。


「メル……メル? お願いだから、返事をしてくれないか? 先生も僕も、君が死ぬことなんて望んでいないんだ」


 顔を歪め、いまにも泣き崩れそうになりながらメルローズに呼び掛けているのは、アルジャナンだった。


「君が生きていないと意味がないんだよ。先生が魔神を召喚していたのだって、僕を弟子にしてくれたのだって、君のためなんだ。君に魔力がなくったって、君が魔術に興味がなくったって、別に良かったんだ。ただ、エルファ家という魔術師の一族に誇りを持って欲しかっただけで……」


 必死にアルジャナンは呼び掛けるが、いまやメルローズは微動だにしない。


「カイロス、君に僕の魂でも肉体でもあげるから、メルローズを助けてくれ! 君は時の魔神だろう? 先生との契約はまだ完了していない! メルローズが死んでしまってはエルファ家の再興なんて達成できやしないんだ! 先生の魂を喰らっておきながらいまさら契約を果たさないなんて僕は許さない!」


 アルジャナンの叫びと同時に、彼の身体から別の声が響いた。


「――よかろう」


 顔を上げたアルジャナンは、すでにカイロスと入れ替わっていた。


「おや。どうする気だい?」


 剣を手にしたまま、タラムスは興味本位で尋ねた。


「もちろん、契約を遂行する。この俺が、契約途中で逃げ帰ったと言われては不本意だからな」


 硬い表情でカイロスは答えた。


「アルジャナン・ヒース。お前のさきほどの言葉、責任を持って果たしてもらうぞ」


 カイロスの両腕に染みついた魔法陣の紋様は、白かったものが血で赤く染まっていた。

 シトラーはメルローズに擦り寄ると、頬を舐め、すぐに姿を消した。


【娘の死を無駄にする気か?】


 司書が静かに尋ねる。


「俺はこの娘の死を認めない」


 強い口調でカイロスは啖呵を切った。


「魔神である俺は、契約者との契約を果たすのみだ。他の者の願いなど、知ったことではない。なによりも、約定を違えるなど、魔神としての沽券に関わる」

 きっぱりとカイロスが答えると、ひとかたまりに集まっていた蛾の一群は崩れるように、ひらひらと四方に飛び始めた。


【そうか。では、お前の好きにするが良い。万象の書とて、魔神であるお前がどう行動するかまでは記してはいない。万象の書は常に書き替えられている。世界の終末でさえ、まだ確定ではないのだ。魔術師の末裔がどうなるかといった些末なことは、万象の書の知るところではない】


 声がかき消えると同時に、蛾は霧散した。


「勿論、好きにさせてもらう」


 自分に言い聞かせるように、固い決意を込めてカイロスは呟く。

 彼の腕に染みついた魔法陣の紋様が熱を帯び、鮮血が薄紅色に変化し、やがて白く発光し始める。

 ゆっくりと、周囲に魔力が渦巻き始めるのを感じた。

 名も無き神が消えたおかげで、この僧院でも難なく魔力が使えそうだ。

 満足げにカイロスはほくそ笑む。


「もしかして、魔神カイロスの本気を見せるつもりかい?」


 タラムスが形の整った眉を顰める。


「そうだ」


 カイロスが頷くと、タラムスは嬉しそうに顔をほころばせた。


「まさかこの地上で、君の実力を目の当たりにできるとは、幸運としか言い様がないな」

「これが見納めになるだろうよ」


 タラムスに目を遣って素っ気なく言い放ったカイロスは、片腕を伸ばしてメルローズを強く胸に抱きしめた。


「では、機会があったら、また会おう」

「そうだね」


 魔神たちが別れの挨拶を告げた途端、突如広間に竜巻が沸き起こった。

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