第八章 7

 聖賢の剣によってメルローズが刺された。

 外套の切れ間から赤い血が噴き出し、彼女の服をじわじわと赤く染めてゆく。

 シトラーがイアサントを襲った。一度はイアサントもシトラーの攻撃を避けたが、二度目は足に噛み付かれ、悲鳴を上げて無様にも床に倒れ込んだ。

 からん、と音を立てて、聖賢の剣が石畳の床に落ちる。


「――封印は、解けたり」


 タラムスが低い声で呟くのが聞こえたが、カイロスにはそれがなにを意味するのかわからなかった。

 ぼんやりと宙に視線をさまよわせていたメルローズは、身体を支える足の力が抜けたのか、崩れ落ちるように倒れかける。

 慌ててカイロスは駆け寄り、抱きかかえた。


「メルローズ、しっかりしろ」


 小刻みに全身を震わせるメルローズの顔は、蒼白だ。

 刃は背中まで貫通しており、そちらも血で染まっていた。

 ぼんやりとカイロスを見つめる瞳は、焦点が合っていないようだ。

 この傷をなんとかしなければ、と気持ちだけは焦るが、カイロスは繰り返し呼び掛けることしかできない。


「封印は解けたり。これで、聖賢の剣は本来の力を発揮する」


 聖賢の剣に近づくと、タラムスが満足げに微笑む。その剣の柄を掴むと、剣を預言者の骸骨に向けた。


「聖賢の剣は、かつて本来の力を封印され、隠されたもの。名も無き神と預言者は、聖賢の剣を手に入れたものの、その封印を解かぬままに使っていた。そのため、神殺しが行われたのだ」

「どういうことだ?」


 カイロスは首だけを動かし、タラムスに尋ねる。


「聖賢の剣は、神と契約者の関係を断ち切ることができる剣だ。ところが地上の魔術師の一部は、この剣によってせっかく召喚した魔神との契約を切られることを恐れ、剣の力を封じて地上に隠した。剣は本来の力を封じられたがために、力が歪み、魔神と憑かれた人間を殺すことができるようになってしまったんだ。名も無き神はそれに目を付け、預言者にこの聖賢の剣を探させた。そうだろう?」


 タラムスが確認するように視線を向けたのは、預言者ではなく、広間の隅の燭台だった。正確には、蝋燭の炎に群がる蛾の一群だ。


【――いかにも】


 蛾の一群から、声が響く。


【その剣は、魔術師の血によって本来の力を封じられていた。解くことができるのは、同じ魔術師の血のみ】


 刃は全体がメルローズの血で赤く染まっていた。


「お前が、司書か?」


 鱗粉を撒きながら飛ぶ蛾に向かって、カイロスは尋ねた。


【いかにも】


 男とも女とも、若いとも老いたとも判断がつかない声が響く。


「まさか、お前はメルローズがこうなることを予想していたのか? この剣に施された封印を解くため、タラムスに誘導させて彼女をここへ呼び寄せたのか?」

【そうだ】


 淡々と司書の声は答えた。


【すでに封印を解ける血はその娘に身体に流れるのみだった。いずれ、封印は解かねばならなかったのだ。それに、その娘は魔神との契約を無効にする方法を知りたかったのだろう? 封印が解けた剣ならば、そなたとその身体の契約も簡単に断ち切ることができる】

「……本当に?」


 か細い声で、メルローズはカイロスの腕の中で尋ねた。


「アルジャナンは、助かるの?」


 まだかろうじて意識が残っていたメルローズは、浅い呼吸を繰り返しながら声がする方へと視線を向ける。


【魔神が祓われた後の身体は、まったく元通りとはいかないだろうが、魔神との契約は破棄できる】

「……良かった」


 血の気がなくなり青い唇をゆっくりと動かしながら、メルローズは微笑んだ。


「よくない!」


 腕にメルローズの温かい血が落ちてくる感触に顔を顰め、カイロスは怒鳴った。


「契約を破棄しては、お前の父親は無駄死にしたことになるんだぞ! 俺に魂を喰われただけでお終いだ! さらにお前まで死んでしまっては、エルファ家の再興どころか、断絶じゃないか!」

「アルジャナンが生きていれば、いいわ」

「この男はエルファ家の血筋ではない!」

「魔術師の血は残す必要がないのよ……もう……魔神を召喚して、誰かが死ぬのなら、そんな魔術はなくなってしまってもいいと……思うの」


 次第に力がなくなっていく声で、メルローズは訴える。


「アルジャナンは、お父様の弟子になってしまったがために、魔術の犠牲になったようなものだわ。だから……彼が元に戻れるならそれで……いいの」

「冗談じゃない!」


 吐き捨てるようにカイロスは叫ぶが、メルローズは薄く微笑むだけだ。


「……タラムス、お願いだからその剣で、カイロスとお父様の契約を断ち切って。そして、アルジャナンを……解放してあげて」

「君がそれを望むならば、そうしよう」


 カイロスのすぐ横まで歩み寄ったタラムスが、静かに頷く。

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