第八章 3
「蛾? 扉の隙間から入ってきたのか?」
独房と廊下とを隔てる鉄の扉は、覗き窓などはないが、壁との間にまったく隙間がないというわけではない。地下は寒いが、この土地柄に適応した蛾であれば、冬であっても餌を求めて暗闇の中を飛ぶのかもしれない。
虫の羽音も聞こえず、蜘蛛の巣すら張っていないような場所だが、蛾には餌が見えるのだろうか。
蛾はひらひらとカイロスの目の前を浮遊していたが、彼が手を伸ばした途端にふっとその姿を消した。
これほど寒い場所に蛾が生息していることも奇妙だった。
「……ただの蛾ではない、のか?」
目を細め、カイロスは独りごちる。
【なにか魔力を宿しているように感じられましたが】
「やはり、そうだろうな」
空を掴んだ指先に視線を向け、カイロスは頷く。
辺りに振り撒かれていた鱗粉さえも、すでに消えている。
一体あの蛾はなんだったのか、と考えを巡らし始めたところで、すこし離れたところから複数の靴音が聞こえてきた。次第に近づいてくるところを見ると、この独房に向かっているようだ。
「ようやくお出ましか」
カイロスは待ちかねた様子でほくそ笑む。
「シトラー、お前はメルローズを探しに行け。ここからなら奥まで進めるはずだ」
【承知いたしました】
深々と頭を下げると、シトラーはそのまま石畳の中に溶け込むようにして姿を消す。
同時に、石畳を歩く靴音が独房の扉の前で止まった。
手提げランプを持っているのか、扉の隙間から細い光が差し込んでくる。
ガチャガチャと鍵束を鳴らしたり、鍵を錠に差し込み回す音が響き始めたので、カイロスは壁際まで寄った。壁に背中をもたれかけさせ、腕組みをして悠然とした態度で扉が開くのを待つ。
鍵が開く音が響いた数拍後、勿体ぶるようにして扉が重く軋みながら開かれた。
まず、手提げランプが独房の中に差し込まれ、続いて二十歳前後の青年修道僧が緊張した顔を覗かせた。
眩しいランプの明かりにカイロスがわずかに目を細めると、青年僧はほっと安堵したように表情を緩める。悪魔が恐ろしい姿に変わっているのではないかと恐れていたのかもしれない。
「ラウジー司教様。大丈夫です。おります」
青年僧は振り返ると、背後に立つ司教に告げた。
そうか、と答えて青年僧を押し退け中に入ってきたのは、黒髪を短く刈った中肉中背の男だった。
フロリオ島からオルドリッジの港に着いたところで会った聖職者だと、カイロスはすぐに気づいた。
「付いてきてもらおうか」
ラウジー司教と呼ばれた男は、冷ややかにカイロスを見下ろし、横柄な口調で告げる。
「どこへ連れて行く気だ」
拒むつもりはなかったが、念のために尋ねてみた。
「預言者のところだ。お前を預言者に会わせよう」
「なんのために?」
「あれが本物かどうかを試すためだ」
「ほう? 預言者の真価を問うのか」
「そうだ。そして、神の値打ちも、だ」
面白い、とカイロスはほくそ笑んだ。
「俺がどういう者か、知っているのか?」
立ち上がり、扉に向かって歩きながらカイロスは尋ねた。
「預言者が悪魔と呼ぶ存在が憑いている者、だ。悪魔にしては随分と普通の容貌をしているものだな。もう少しおどろおどろしい姿をしていてくれた方が、すぐに探し出せたものを、それでは人となんら変わらぬではないか」
「この身体は所詮借り物だ。俺の真の姿は、人の目に映るものではない」
カイロスがうそぶくと、ふん、とラウジー司教は鼻を鳴らした。
その三歩後ろに立つ青年僧は、カイロスが近づくだけでびくっと全身を大きく震わせ怯えた。人間と大差ないカイロスが、いつ変貌して暴れ出すかと怖じ気づいているようだ。
勿体ぶった態度でゆっくりとカイロスが独房を出ると、ラウジー司教は五十本近い鍵を鉄の輪で繋いだ鍵束を使い、閉めた扉に再び鍵をかけた。
「預言者に気取られずにお前を隠すには、ここしかなかったのだ」
言い訳するようにラウジー司教は説明した。
黒い礼服の長い上着の裾をひるがえし、ラウジー司教が先頭に立って歩き出した。
カイロスが黙ってその後ろを歩くと、青年僧も手提げランプを持って付いてくる。
石畳の廊下は歩く度に靴音が響く。
廊下の両側には鉄の扉が幾つも並んでいるが、いまはほとんど使われていないらしく人の気配がまったくしない。死者の気配と臭気はするが、それもかなり年数が経っているようで静まり返っている。かつて天主教は黎明期において、かなり過激な異端狩りをしていたと聞いている。その名残なのかもしれない。
ラウジー司教に続いて進むと、階段を上がり、長い回廊を歩き、寒風が吹き荒ぶ外回廊を渡った。
まるで迷路のような僧院の奥へ奥へと向かう。
次第に建物の様式が古くなり、石を切り出した太い柱が等間隔で並ぶ。床や天上は色とりどりのモザイク画で飾られていた。天主教は偶像崇拝を禁止しているため、世界を照らす光である神は光輪で示されている。
一体どれほど僧院は広いのかとカイロスが寒さにうんざりしながら歩き疲れ始めたところで、ようやく黒ずんだ樅の木の扉の前に辿り着いた。
ここには頭が薄くなった恰幅の良い司教が待ち構えていた。彼もオルドリッジの港でカイロスを待ち伏せしていた聖職者だ。
「待たせたな、ニーヴン」
ラウジー司教が声を掛けると、ニーヴンと呼ばれた司教服の男は、わずかに顔を歪めた。
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