第七章 6

 教会で新しい馬を得たイアサントは、沈鬱な気分を抱えて山道を進み始めた。

 ゲアリ司祭の話はどこか曖昧で、難しい。

 彼があの教会にとどまり続ける理由は、もしかしたら神の存在そのものに懐疑的になっているせいかもしれないが、それにしても考えていることが理解できなかった。いや、理解したくなかった。

 イアサントにとって世界とは、神を中心に回っているものだ。

 それが突然、神ですら世界の一欠片でしかないと告げられて納得できるはずがない。

 山から吹き下ろす冷たい風は、イアサントの頭をほどよく冷やしてくれた。

 いまは悩んでも仕方ないことをあれこれ考えるべきではない。なんとしてでもラウジー司教らの企みを阻止しなければならないのだ。彼らはどこで悪魔に魅入られてしまったのか、悪魔の力を利用しようとしている。神に反逆しようとしている。

 神聖なる僧院に悪魔を招くなど、狂気の沙汰だ。

 悪魔が古き神々の成れの果てであったとしても、いまは唯一神と敵対する悪魔でしかないというのに。

 思考をまとめながら馬を進めていたイアサントは、視線の先にひとりで歩く小柄な巡礼者の姿を見つけた。


(この時期に、珍しい)


 雪で僧院まで歩くには厳しい時期であるいま、巡礼をする者は稀だ。

 空は晴れてはいるが、標高が高く、気温も低い山道は、周囲が崖で囲まれていることもあり、辺りは薄暗い。

 道の両脇にはうっすらと積もった雪が凍り付いている。

 斜面には慣れていないのか、小石が敷き詰められた山道を、焦げ茶色の外套を羽織って荷物を背負った巡礼者は、山道を歩き慣れていないのかゆっくりとした足取りで上っていく。背格好からすると、女か子供のようだ。

 その横を、なにやら黒い生き物が歩いている。

 犬のようだ、と考えた瞬間、ふっと数日前の記憶が蘇った。


(あの黒い姿はまさか、あの悪魔の使い魔ではないのか?)


 巡礼者の方も、外套からはみ出た亜麻色の髪に見覚えがあった。

 あれが女だとすれば、悪魔憑きと一緒にいた娘である可能性が高い。


(ラウジー司教は悪魔憑きの男を捕らえたようだという証言はあったが、女まで捕らえたという話は聞いていない。司教は女の方は重要ではないのだと考えたのだろうが、あれこそが悪魔をこの世に召喚する元凶だということを知らないのか?)


 咄嗟に、殺さなければ、という考えが脳裏を過ぎった。

 魔術師の末裔を生かしておいてろくなことにはならない。

 しかしいまは、残念なことに武器を持っていない。


(首を絞めて殺すか?)


 紐か布でもあれば、簡単にあの細い首を絞め殺すことは可能だ。


(いや……この場で殺しても、悪魔が無事であれば悪魔によって生き返らせられるかもしれない)


 悪魔がどれほどの力を持っているかはわからないが、フロリオ島で見せた力の凄まじさはイアサントにとっても衝撃だった。あれほどの力を振るう悪魔と、これまで対峙したことはなかった。


(どうせ殺すなら、悪魔を倒してからの方が良いだろう)


 絞め殺したていどでは、放置しておいてもすぐに息を吹き返す可能性もある。なにしろ、相手は悪魔を召喚した魔術師の末裔だ。


(あの娘は連れて行こう。そして、ラウジー司教が捕まえた悪魔と対面させるのだ。司教がなにを企んでいるにせよ、悪魔も娘を人質に取られてはそう簡単に司教の思惑どおりには動かないはずだ)


 手綱を片手で強く握ると、イアサントは馬の歩調を早めた。

 蹄の音が辺りに響き始めると、娘は気づいたらしく、背後を振り返る。

 イアサントの姿を見つけると、驚いたように目を大きく見開き、すぐに身を翻して駆け出そうとした。

 彼女の隣に立つ狼が、歯茎を剥きだしにして唸り声を上げる。いまにも馬に飛びかかりそうな体勢だ。

 狼の存在に脅える馬を宥め、イアサントは真っ直ぐに進んだ。開いた片手を娘の身体に伸ばす。

 真後ろまで馬が迫っていることに気づいた娘は、逃げるため崖に向かって飛び降りようとした。

 その寸前でイアサントはなんとか娘の腰を捕まえ、馬上へと引き上げることに成功する。


「放して! この人殺しがっ!」


 娘は大声で喚いて暴れたが、イアサントは放さなかった。

 手に持っている長い布で撒かれた物が、馴染み深い形をしていたせいもある。


「お前、それはまさか聖賢の剣か?」


 イアサントの問いに、素早く娘は剣を崖下へと投げ捨てようとした。

 娘から手を放すことができない彼は、思わず手綱を放し剣を掴んだ。

 狼に威嚇され、足踏みしていた馬はいななき、後方の足で立ち上がる。

 その瞬間、二人はまとめて地面に放り出された。

 狭い道に落ちた勢いで、そのまま崖の際まで転がる。

 悲鳴を上げそうになるのを堪え、イアサントはなんとか娘と剣の両方を確保したまま、道の上に残ることができた。

 崖下まではそう深くはないが、荒い岩場となっているので、落ちればほぼ即死だ。

 肩で荒い息を繰り返し、助かったことを神に感謝したときだった。


「シトラー、ありがとう」


 イアサントが抱えている娘が、狼に向かって礼を言うのが聞こえた。

 よく見れば、娘の外套の裾を狼が咥えている。

 自分たちが助かったのは神の慈悲ではなく、狼の力によるものだと気づくと、イアサントは憮然となった。

 気持ちが落ち着いてきた途端、地面に落ちた際に身体を打ち付けた痛みが脳にじわじわと伝わってきた。腰や尻を強く打ったらしく、相当痛い。しかしここで苦労して捕まえた娘を放してしまって逃げられるわけにもいかず、なんとか我慢した。

 目の前では、イアサントを振り落とした馬が戸惑ったように立ち止まっている。

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