第七章 1

 バッコス港でタラムスと再会したメルローズは、彼が用意した小船で大陸へと渡った。

 どこからかタラムスが見つけてきたその船は漁船くらいの大きさだが、長く放置されていたのか船のあちらこちらがかなり痛んでいた。床板は腐っている部分もあり、船内を歩く際は足元をよく確認していても木がぼろぼろと崩れる始末だ。

 海を渡っている途中で沈んでしまいやしないかと不安を覚えたが、タラムスに別の船を探してもらう時間の余裕はない。仕方なく、メルローズは覚悟を決めて小船に乗った。最悪、船が海に沈んだとしてもタラムスがなんとか助けてくれるだろう。

 二日間の船旅は海が予想以上に荒れたこともあり、楽なものではなかった。船酔いが酷く、甲板に出ては海に向かって吐いてばかりいた。船に乗る前に、散々食べた物すべてが海の藻屑となり、気分は最悪だった。


「どうやら、この辺りを支配している海の神は、僕が気に入らないようだねぇ」


 波を起こして船を大陸側へと動かしながら、タラムスは海の中で楽しげに笑い声を上げる。そのたびに波飛沫が船内を濡らし、メルローズの服も一緒に濡れた。


「海峡によって僕を受け入れてくれる神もいれば、拒否しようとする神もいてね。この海峡の神は、僕を排除したい派らしい」


 船を操るタラムス自身は、揺れる波間を漂っていても酔うということがない。常に涼しげな顔をして、メルローズに話しかけては、船酔いで真っ青になっている彼女の気を紛らわせようとしていた。


「カイロスを乗せた船は、そろそろ向こうの港に着いた頃だろうね。あの船は最新鋭の蒸気で動く船だから、かなり早いよ。石炭を焚いて動かすから、帆船よりも人出が少なくて済むらしい。それにしても、四六時中黒い煙を吐きながら進む船なんて幽霊船より不気味じゃないか。いっそのこと、ここの海峡の神があの船を転覆させてくれたら良かったのにねぇ」


 カイロスが乗った船を沈められては困る、とメルローズは内心反論したかったが、口を開くのも億劫だった。

 幾度か船酔いで死にそうになったものの、それでもなんとか二日目の夕刻には大陸の西端、ラグレーン港に辿り着いた。

 タラムスには、聖山で再会する約束をして別れた。

 シャンティの僧院まで続く川が近くにないため、タラムスは地下水脈を遡って移動するのだという。川などの広い水路がなければタラムスはメルローズと一緒に行動することができないのだ。

 ウィレム王国領ではあるが、自治州となっているラグレーンは、バッコス港並みに繁栄していた。

 大陸側に到着した途端、空気の冷たさに身体が震えた。フロリオ島よりも北に位置するラグレーンは、すでに冬の季節を迎えていた。

 聖山シャンティへは、さらに北上しなければならない。

 港町の古着屋で鹿の毛皮の裏打ちがされた外套を購入したメルローズは、早速袖を通してみた。寒風を遮断する外套は多少獣臭さはあったが、予想以上に温かかった。

 海の上にいたときはそれほど感じなかったが、ラグレーン港は北の山から吹き下ろしてくる風で気温が冷え込んでいる。

 メルローズは外套の他にも、可能な範囲で必要な物を買いそろえた。主に数日分の食料を買い、聖賢の剣が背負えるようにざつのうも購入する。

 港のそばの乗合馬車の待合所でメルローズがシャンティへの行き方を尋ねると、誰もが奇妙な顔をした。

 聞けば、雪がまもなく降ろうというこの季節は、修道僧でなければシャンティへ行く者はほとんどいないのだという。

 死んだ母の命日が近いので供養のために巡礼しているのだ、と適当な言い訳をでっち上げると、人々は手のひらを返したように親切になった。西の果てのフロリオ島からやってきた、というのも効果があったようだ。

 好意的になった人々は、口々にシャンティの手前の町まで向かうという馬車を教えてくれ、お守りやら旅の道具やらを分けてくれた。毛皮のついた手袋に編み上げ靴といったものまでくれる者も出てきた。

 巡礼者というだけでここまで人の態度が変わるものなのかとメルローズは驚いた。

 ウィレム王国の天主教信徒は、皆信仰心が厚いらしい。

 メルローズは母が生きていた頃を思い返してみたが、母は父に遠慮していたのか、あまり熱心に教会へは通っていなかったし、祈祷もしていなかった。ジエルラントがそのような気風だったのか、当時住んでいた辺りがそうだったのか、彼女が覚えている限り、どの家でも似たようなものだったような気がしていた。

 巡礼者だと偽ったことにわずかな罪悪感はあったが、行き先が聖山シャンティである以上、似たようなものだ。

 人で溢れる乗合馬車に乗り込み、メルローズは聖山に向かうことにした。

 港に着いたところで、シトラーは鞄に入るくらいの黒犬に変身していた。耳が垂れた子犬なので、吠えさえしなければ誰も文句を言わない。人いきれでむっとする車内はかなり息苦しく狭かったが、財布の中身が乏しい以上は贅沢もできない。

 毛皮が裏打ちされた外套を羽織っているせいか、座っているだけなのにじんわりと額から汗が浮かぶ。

 夜になって途中の宿場町に辿り着くと、そこから先へは翌朝にならなければ馬車が出ないということで、メルローズは渋々一泊した。

 馬を買うだけの金があれば、昼夜を問わず馬を駆けてシャンティまで行けただろうに、とらちもないことを考えつつ、翌朝も乗合馬車で移動した。馬には乗れないし、馬の世話もできないのだから、ひとりで馬に乗ることそのものがどだい無理な話ではある。

 馬でなくとも、お伽話のように魔法の絨毯でもあれば助かるのだが、メルローズの魔神はそのような便利な物は用意してくれなかった。契約相手の魔神ではないのにタラムスが船を調達してくれて、漕ぎ手がいなくとも船を移動させてくれただけでもかなり助かってはいる。

 タラムスのこの親切になんら裏がないとはいえないが、彼は万象の書の司書の予言を見届けたいがために手助けしてくれているに違いない、とメルローズは自分を納得させた。魔神を召喚させた後、どのように魔神と付き合えば良いかは父から教えられたことがなかったことをいまになって気付く。

 メルローズの魔神に関する知識は、クラメンスやアルジャナンの一割にも満たないのだ。


(だって、まさか本当に魔神が呼び出せる日がくるなんて思わなかったんだもの)


 誰に対するわけでもなくメルローズは心の中で言い訳をする。

 馬車旅の最中、いくら子犬の大きさとはいえシトラーをカバンの中に入れておくのも可哀想で、翌日は懐に入れておくことにした。

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