第六章 5
カイロスがなにを考えて行動しているのかは、メルローズにはまったく理解できない。
聖職者たちもカイロスを捕らえてなにをしようとしているのか。
(聖職者たちが大陸に渡るというのであれば、きっと聖山の僧院に向かうんでしょうね。あそこは天主教の総本山だし、彼らはその辺の司教とは違うはずだわ)
天主教に詳しいわけではないが、複数の聖職者が一緒に行動しているとなると、聖山の僧院から派遣されたと考えるのが自然だ。
(預言者や鏖殺師に対立する勢力があるのであれば、彼らがそうなのかもしれない。でも、カイロスを使ってなにをしようとしているの?)
預言者が魔神の召喚を預言した。その魔神を殺そうとする一派と、取り込んで自分たちで使役しようとする一派が存在している。フロリオ島に現れた鏖殺師と聖職者たちは前者だろう。彼らは、預言者と神の御心に従い、魔神を悪魔として滅しようとしている。彼らは唯一の存在である名も無き神を信奉し、他の神など認めない。それどころか、神を名乗る存在はすべて抹殺しようとしている。
一方で、預言者の横政に異を唱える一派が存在しているのだろう。彼らは、自分たちを支配する神の存在に疑問を抱いている。預言者の預言ひとつで動くこの集団を、もっと違った形にしようと考えている。彼らは、この天主教そのものを改革しようとしている。そこに、魔神の力が不可欠だと考えているのだろう。
(彼らは預言者の預言や魔神の存在にこだわりすぎているんだわ。まるでそれなしには、人々の信仰心は得られないと考えているみたい)
神はわざわざ人に声をかけてくれる存在でなくともいいはずなのに、彼らは神の御言葉を欲しがる。まるでそれがなければ自分たちには価値がないかのように、神にすがる。
魔神の召喚を熱心に研究していたクラメンスは、魔神がなかなか召喚に応じなくとも、魔神の存在そのものを疑ったことはなかった。なかなか難しいものだな、とぼやくことはあっても、魔神を召喚できない自分の力を嘆くことはあっても、魔神の存在は信じていた。
(お父様は、カイロスの召喚に成功し、エルファ家の再興を望んだというけれど、本当にそれが望みだったのかしら)
魔神を召喚して、その後のことをどこまで考えていたかは疑問だ。
(本当は、魔術そのものを存続させたかっただけなのではないのかしら)
魔術の研究は、後継者がいなくなれば途絶えてしまう。
エルファ家の血筋はメルローズが最後だが、アルジャナンさえいれば研究そのものを続ける人間は残ることになる。
(実はお父様は、自分が魔神の召喚を為し遂げられないと考えていたんじゃないかしら。完成することのない研究を続け、やがてアルジャナンがそれをなんらかの形で後世に伝えてくれることを望んでいたのではないかしら)
オリヴィエは言っていた。すでにエルファ家が魔術師として研究してきた文献や資料などの一切は、天主教によってすべて破棄されたと。エルファ家の存在そのものを、天主教は抹消しようとしたと。
かつてエルファ家の魔術師たちは、魔神を召喚する際に命を賭け、それでいながら秘密主義を貫いた。一子相伝ではないが、たいした研究書も残さず、志半ばで死んでいった。
(お父様は、そんなエルファ家を変えようとしていたのかもしれない。膨大な資料を集め、自分で魔神召喚の実験を試し、一族の歴史を残そうとしていたのかもしれない)
屋敷が跡形もなくなってしまったいまでは、メルローズとアルジャナンの頭の中にある記憶だけが、エルファ家の魔術を伝えている。
いつかこれらを少しずつ書き残し、次代に残すことができれば良いが、ここで死んでしまっては、エルファ家の存在そのものが本当に消えてしまうことになる。
「シトラー、あの船は大陸へ向かうのかしら」
木箱の陰にしゃがみ込んだまま、メルローズは狼の頭を撫でつつ訊ねた。
耳を垂らし、鼻を擦り寄せてきたシトラーは、舌を出して彼女の手を舐める。
「わかってる。あの船に乗り込もうなんて考えないわ。タラムスが船を用意してくれているんでしょう? もちろん、それに乗るわ」
安全に大陸へ渡ることを考えれば、ひとまずアルジャナンの身はカイロスが守ってくれるだろうと信じるしかない。
自分は聖賢の剣を持って、司書と会えるかもしれない聖山シャンティを目指すのだ。
もし司書に会えたならば、カイロスとの契約を破棄する方法を尋ねるのだ。契約が破棄できないのであれば、アルジャナンを生かしたままカイロスを祓う方法でもいい。
カイロスは魔神にしては人間臭いところがあり、一緒に旅をしているうちに、親しみも持てるようになった。彼が人間だったなら、仲良くなれただろう。もし彼が魔神のままだったとしても、アルジャナン以外の誰かに憑いていたのであれば、これほど必死になって祓う方法など探し求めはしなかっただろう。
(アルジャナンだけは、犠牲にできないわ)
旅などしたことがなかったメルローズが、ひたすら万象の書の司書に会うことを願って聖山を目指すのは、アルジャナンのためだ。彼を生かしたままカイロスを祓うため、メルローズは自分にできることであれば、どのようなこともする決意を固めていた。
それがアルジャナンの望むことであろうとなかろうと、自分でやると決めたからにはやり遂げる。
エルファ家の未来をアルジャナンに託すことで、彼に迷惑を掛けることになるかもしれないなど、いまのメルローズの頭の中には微塵も浮かばなかった。ただひらすら、アルジャナンを取り戻すことしか考えていなかった。彼の心中を想像したりしていては、自分の足が止まってしまいそうで怖かった。
アルジャナンが、メルローズのために自分の命を犠牲にしても良いなどと言おうものなら、目的を見失った自分が腑抜けになってしまうことを、彼女は薄々感じていた。
いまは自分の都合だけを考えて行動するしかない。
聖賢の剣を抱え、メルローズは自分に言い聞かせる。
(待っていて、アルジャナン。わたしは必ず、司書に巡り会ってみせる。そこで、カイロスを祓う方法を聞き出すわ。だってこんなこと、間違っているはずだもの)
魔神カイロスがこの世に召喚されたことも、鏖殺師がアルジャナンごとカイロスを殺そうとしていることも、すべては間違ったことのはずだ。万象の書にこのような誤りが記されているはずがない。これらは全部、正されなければならないことだ。
メルローズは繰り返し自分に言い聞かせた。
なにが正解でなにが不正解かなど明確に答えが出るものではないことに気付かないわけはなかったが、彼女はそれを無理矢理意識の外へ追い出した。
いまは常識でものごとを判断する状況ではないのだ。
(そうよ。すべてが間違っている限り、タラムスが言っていたとおり、シャンティへ行けばアルジャナンの前に万象の書の司書が必ず現れるはずよ。そして、アルジャナンが鏖殺師に命が狙われるようなことはなくなるはずよ)
船に乗り込んでいくアルジャナンと聖職者たちの姿を睨みつつ、メルローズはなんども心の中で唱えた。
司書が聖山シャンティで聖賢の剣を待っているのだ、と。
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