第六章 3

 林の手前で立ち止まったカイロスは、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませていた。

 食堂で食事をしていた二人組の男たちは、カイロスとメルローズの存在を酷く意識していた。聖職者であることを隠してはいるが、魔神であるカイロスには彼らの身体に付いている跡に気づいていた。天主教内では聖符と呼ばれるもので、神の祝福を受けた者の身体に現れる跡だ。要するに神が自分の所有物であることを示すため、信徒に付けている焼き印のようなものだ。

 険しい目つきでまっすぐに闇を射貫くように睨みながら、カイロスは自分の腕に付いている白い模様をさすった。魔神カイロスを召喚する魔法陣の模様が、そのままアルジャナン・ヒースの両腕に刻まれている。この肉体がカイロスの所有物であることを示す印だ。

 メルローズが林に入るところを見届け、カイロスは彼女を先に行かせた。

 天主教の聖職者が複数で掴まえにくれば、カイロスは逃げられても、メルローズも無事とは限らない。聖職者たちの狙いはカイロスだが、メルローズが人質に取られる可能性もあった。聖職者などしょせんは名も無き神のしもべだ。常に清廉潔白なわけではない。目的のためには手段を選ばないだろう。

 メルローズを危険な目に遭わせるな、とアルジャナンの鼓動が叫んでいる。

 自分の身はどうなっても構わないから彼女を逃がせ、と。

 過去にカイロスが憑いた人間たちは、魂を奪われずとも魔神に身体を支配されてしまったことに萎縮していた。誰もカイロスに意見する者はいなかったし、肉体が滅ぶまで二度とカイロスから身体を奪い返そうともしなかった。

 アルジャナンのように、カイロスに対して自分の意見を主張し、一時的とはいえ魔神から肉体を取り戻した者もいなかった。


(あの娘のこととなると、死んだ魔術師といい、この身体の男といい、やたらとうるさいものだな)


 シトラーがそばにいるのだから大丈夫だ、と宥めても、アルジャナンは納得していない。頭の中で喚かれているような感覚がして、鬱陶しい。

 しかし、契約した以上はどのような手を使っても果たさなければならない。契約を破棄するならば別だが、契約をしておきながら果たせない場合の魔神の末路など、ろくなものではない。待っているのは、存在の消滅だ。

 魔神の中には、契約を果たせなかった場合のことを恐れ召喚に応じない者もいるが、カイロスのように面倒だからと言う理由で応じない魔神の方が少ない。


(俺の誇りにかけて、契約は果たしてみせる)


 魔術師エルファ家の再興など、容易いものだ。


(たかが人間の一族を繁栄に導くだけではないか)


 エルファ家の末裔がいまやメルローズだけになってしまったことや、彼女には魔力がないことなど、カイロスにとってはどうでもいいことだった。

 天主教が幅を利かせる現在、魔術が忌まれることも承知の上だ。

 さて、と村の方角からこちらへと向かってくる人の気配に、カイロスは腕組みをして唸った。人間に憑いている彼は、現在のところ魔神としての魔力はほとんど封じられていて使えない。

 とはいえ、万象の書の司書に会うために聖山シャンティに出向かなければならない。

 あのような場所を指定するなど、司書がなにを考えているのか不明だが、司書なりの考えがあるはずだ。カイロスが知る限り、司書は無駄なことなど一切しない。

 常に聖山シャンティの僧院にあるはずの聖賢の剣が、おうさつによって外へ持ち出される機会を司書は待っていた。その剣がやがてタラムスの手に渡り、さらに別の者の手によって聖山シャンティに再び戻ってくるよう、司書は仕組んだ。

 つまり、鏖殺師が持っているままでは、司書が望んだとおりの事態が起きないということだ。


(司書はなにが起きることを期待しているんだ? まぁ、俺にはどうでもいいことだが)


 司書の頭の中にどのような筋書きがあるにせよ、カイロスは自分の契約を果たすだけだ。

 聖賢の剣をシャンティに運ぶことでなにが起きるにせよ、これで天主教に打撃を加えることができるのであれば、喜ばしい。

 そのためにもまず、なんとかしてシャンティに辿り着かなければならない。

 シャンティの僧院に籠もっているという預言者は、この地上に魔神カイロスが現れていることを察知している。どのような姿かは知らずとも、カイロスを召喚する魔法陣がカイロスに憑かれた者の身体に刻まれていることも知っているはずだ。身体に模様をつける習慣がないこの国の中で、皮膚に模様がある者の中からカイロスに憑かれた者を探し出すことなど容易い。

 実際、フロリオ島ではあれほど簡単に鏖殺師がエルファ家に辿り着いていた。

 フロリオ島のような余所者の移住が珍しい土地で、魔神召喚が行われたとなれば、エルファ家の関与を疑うのも当然だ。エルファ家は教会に通わず、天主教の信徒ではないことも公言していた。アルジャナンの記憶によれば、島民たち皆が知っていた事実らしい。

 島という狭い社会に属していると、たいていは同じ派閥に属したがるものだが、エルファ家のように独立していながら飄々としているのを珍しい。特に、フロリオ島のような人が少ない土地では。

 いまとなってはそれもどうでもいいことではある。


(まずは、あの連中をメルローズから引き離した方がいいだろう)


 体調が落ち着いたとはいえ、まだしばらくメルローズは慣れない旅を続けなければならない。

 野宿などしたことがなかった彼女が泣き言を口にしないのは有り難いが、あまりにも我慢されると、調子が悪いことさえ気づけないので困る。カイロスという魔神が相手では、自分のことをあれこれ主張しても仕方ないと諦めているのかもしれないが、途中でまた倒れられても面倒だ。

 先日メルローズが風邪で倒れたときから、彼女に無理をさせるな、とアルジャナンが繰り返し叫んでいる。

 聖職者たちの狙いは、あくまでも魔神カイロスだ。

 魔力を持たないメルローズなど、おまけにすぎない。

 ならば、自分を囮にするだけだ。

 できれば、聖職者たちが自分をすんなりと聖山シャンティの僧院まで連れて行ってくれれば助かるのだが、そこまで上手くいくものかどうかが怪しい。


(賭けるしかないか)


 あまり魔神らしい考えではなかったが、カイロスはほくそ笑み、決心した。

 空を見上げれば、無数の細かい星々が明滅している。

 長い年月を地下で暮らしていた彼にとって、果てのない天空は眺めているだけで楽しい。地下の薄暗い天井は見飽きた。


(地上は騒がしく、秩序なく、面倒で、なにが起きるかわからないからこそ面白い)


 万象の書の司書が地上を隈無く巡り管理しようとしているのも、すべては地上において予想外のことが頻発するからだ。万象の書に記されている通りにすべてが進む地下や天上とは異なり、地上は誰の思い通りにもならないことがいくらでも起こる。

 魔神たちが地上に憧れるのも、天上の神々が地上へ降り立つのも、すべては地上が波瀾万丈すぎるからだ。

 いまや混沌は、この地上にしか残っていない。

 冷厳な天上や、澱んでいながらも淡々としている地下に比べ、地上には美醜のすべてが揃っている。

 これほどに心地よい空気を、彼は他に知らない。

 魔神たちが約定に縛られていなければ、この地上はもっと狂ったものになっていた。

 名も無き神と契約者が一緒になり、支配しようとしている、この愚かしい世界。


(名も無き神と契約者が作り上げた夢の国を、粉々に破壊してやろう。そして、俺の契約者が望む魔神と魔術師の時代を再びこの地上に興すのだ)


 近づいてくる手提げランプの仄かな明かりに目を遣り、カイロスは不敵な笑みを浮かべた。

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