第六章 2
店の入り口に吊ったランプの炎が辺りを照らしているが、すでに各家々からは明かりが消えている。早々に寝静まっているのか、外は静かだ。
カイロスはメルローズの手を取ると、こっそり店の裏へと回った。
外は星明かりしかなく、足下は暗闇でほぼ見えない。
「さきほど、食堂に妙な二人がいただろう」
宵闇の中で、カイロスが耳元で囁く。
「タラムスは、あの二人が教会の連中だと告げた。俺たちを追ってきているのかは不明だが、すぐ目の前の教会ではなく、二階の宿に泊まっているらしい。しかも、身分を隠している」
葡萄酒が揺れた瞬間、タラムスから連絡が入ったのだとメルローズは気づいた。
「なぜ?」
「それがわかれば苦労しない。わかったところで、面倒な理由だろう」
教会の聖職者は、戒律を守るためにも定時の典礼に出席するためにも、通常教会の宿泊所に寝泊まりする。その彼らが旅籠に泊まっているというのは、いかにも怪しかった。
「逃げた方がいいのかしら」
「いいだろうな」
はじめからふたりに手荷物のようなものはない。
タラムスから預かった硬貨はスカートの内ポケットに入れている。
聖賢の剣はシトラーに預けているので、心配はない。
風呂を使えたし、食事もできた。これで寝台の上で朝までゆっくりと眠れたら最高だったが、野宿をするしかなさそうだ。一泊分の宿代と朝食代が無駄になるが、諦めるしかない。
「シトラー」
地面を踵で叩いてカイロスが使い魔を呼ぶと、暗闇の中で金色の瞳だけが現れた。すっかり闇に同化しているので、宙に眼球だけが浮いているように見えて不気味だ。
シトラーは音もなく近づくと、メルローズの足下にすり寄った。太いしっぽをゆっくりと揺らし、彼女のスカートを叩く。実体のない魔物のはずなのに、毛皮は温かく、メルローズの緊張感を和ませた。
カイロスはシトラーの背中に縛り付けていた衣で包んだままの聖賢の剣を、メルローズの手に握らせた。
「剣はお前が持っていろ」
ずっしりとした剣がメルローズの手に渡された。ここまでは自分で剣を持たなかったので歩くことはそう苦痛ではなかったが、これからはこの鉄の塊を持って歩かなければならないことになる。
「わたしが持っていなければ駄目なの?」
「そうだ。――シトラー、お前はこいつのそばから離れるなよ。あと、港までの道案内をしろ」
了承を示すように、シトラーはぐるぐると喉を鳴らした。
「まるで離ればなれになるのが前提みたいな言い方ね」
カイロスの口ぶりが気になり、メルローズが険のある口調で尋ねた。
「場合によっては、二手に分かれた方がいいだろう。あの食堂にいた連中が、俺を殺したいのか捕らえて利用したいのかはわからないが、殺したいのであればこの剣はお前が持って逃げた方がいい。捕らえて利用したいのであれば、お前が剣を持っていてもお前を追うことはないだろう」
「でも、聖山までの道をわたしは知らないわ」
「シトラーが知っている。タラムスも場所は知っているようだから、お前の様子を見に現れた際に訊けばいい。そう頻繁には顔を出さないかもしれないが、名を呼べば応える。契約をせずとも、名を知られている相手の呼び掛けには反応するのが魔神というものだ」
「あなたは?」
「俺か? 俺は名を呼ばれれば聞こえるが、この身体では自由に移動はできないから応えるのは難しいな。そう心配せずとも、シトラーがついていれば充分だろう」
ぱたぱたとシトラーのしっぽがメルローズを奮起させるように、スカートを叩く。
「シトラーなら護衛代わりにもなる。必要であれば、人の姿にもなれる奴だ」
「え? そうなの?」
狼の姿でしか現れないので、獣の姿にしかなれないものだと勝手に思い込んでいた。
「短時間だが」
興味本位で見てみたい気もした。
「人型になると嗅覚が落ちるし、夜目が利かなくなる。よほど人型でなければならないようなときを除けば、狼でいることの方が多い。本性が獣だからな」
「カイロスの本来の姿は?」
「俺には、人の目に触れる姿はない。タラムスは長い間地上で過ごすうちにあのような水を真似た姿を取るようになったが、魔神の誰しもがあのように人が見られる形を持つものではない」
小声で喋りながらも、カイロスはメルローズの背中を押して歩き出す。
反対側は足下に寄り添うように立つシトラーの体温が感じられる。
夜風が食堂の熱気で火照った頬に涼しく感じられた。
村の中心を通る街道ではなく、家々の隙間の小径を通り、村の外へと出る。
星明かりだけを頼りに、歩いて行く。
メルローズはまだ五十歩と歩かないうちに、聖賢の剣の重みにうんざりし始めていた。
彼女が溜め息を吐く度に、シトラーがしっぽで励ますようにスカート越しに足を叩く。
村を抜けると、ゆるやかな坂道を下り、林が現れた。メルローズの背丈の倍くらいの高さの木々が植えられている。下生えの草は少なく、枯れ木や枯れ葉もほとんどないのか、歩いても足音は響かない。
林の中には
(……不気味)
ぶるりと身体が震え、足がすくみそうになる。
「ねぇ、カイロス」
空いている方の手を振り、小声でカイロスに呼びかける。
「ここって変な魔神とか魔物とか棲んでいないのかしら。なんか雰囲気が怖いのだけど」
心細さから、カイロスの腕を掴もうとして手を伸ばすが、空を切っただけだった。
「――カイロス?」
隣を歩いているはずの相手を探し、暗闇の中で目を凝らす。
返事はない。
深淵ばかりが広がる目の前に、カイロスの姿や気配はない。
反対側の足下に視線を向ければ、メルローズを見上げているシトラーの金色の双眸が浮かんでいる。
自分の視力が失われたわけではないのだと胸を撫で下ろすが、ますますカイロスの姿が見えないことに不安が募る。
「カイ……」
声を張り上げようとした途端、シトラーが彼女のスカートに噛みついて引っ張った。
「もしかして、はぐれちゃったの? カイロスは魔神だけど、アルジャナンはほとんど魔力がない人間なのよ。魔術師の弟子ではあるけれど、こんな真っ暗な中でなにかできるほどの魔法なんて使えないのに」
カイロスもお伽話のように杖を触ったり、指を鳴らしたりするだけで魔法が使える魔神ではない。契約の途中で自分を見捨てたのかもしれないと危惧しないでもないが、魔神が約定を違えればそれなりの制裁が加わるはずだ。
「カイロスはあくまでもアルジャナンの身体に憑いているだけなんだから」
メルローズが引き返そうとするが、シトラーはスカートに噛みついたまま、四つ足を踏ん張って彼女を引き留める。金色の瞳で彼女を凝視し、行かないようにと訴えてくる。
「でも……」
メルローズがさらに言い募ろうとするが、シトラーはあくまでも前に進むことを主張するような目をしていた。
「……わかったわ」
大きな溜め息をついて肩を落とすと、メルローズは降参した。
このままでは、どちらにしてもシトラーにスカートを破られるか自分で破らなければ、戻れそうにない。戻ったところで、カイロスのところに辿り着けるとは限らないし、彼になにか困難が降りかかっていたとしても、メルローズに彼を助けられるものでもない。
「別々に行った方が安全ってカイロスは判断したのね」
こくりとシトラーが首を縦に振る気配がした。
「まったく。アルジャナンの身体に傷をつけたら、承知しないんだからね」
背後を振り返り、メルローズは姿が見えないカイロスに向かって呟く。
心細げな声は林に満ちる闇に溶け、ひとりと一匹の足音がその場から遠ざかった。
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