第五章 1

 どうやら風邪を引いたらしい。

 それも無理からぬ話で、一昼夜、濡れた服のまま過ごしたのだ。

 翌朝になり、タラムスが小舟を誘導し、別の船のそばまで連れて行ってくれた。

 小さな屋形船には人の姿がなく、中には衣類と食料が少々あった。旅の途中で港を訪れ、上陸して買い物でもしている最中なのかもしれない。

 カイロスが遠慮せずその場にあった男物の服を奪ったので、メルローズも船内にあった女物の服を一着だけいただいた。

 パンとチーズを一切れずつ持ち出し、小舟に戻る。

 小舟はかいがあるが、タラムスが波を作って舟を動かしてくれるので、自分で漕ぐ必要はなかった。

 港の周辺は天主教の聖職者たちがまだうろついている可能性が高い。

 そのまま港から川の河口へと小舟を進め、川を遡っていくことになった。

 まず聖山シャンティがある大陸へ向かうには、大陸へと渡る船に乗らなければならない。さすがに小舟で大陸まで漂流するというのは無理な話だ。

 小舟でも、揺れ具合によってはカイロスは船酔いした。

 ときおり真っ青な顔になっては、船の縁に手をついて吐いている。

 その度に、小舟を水面で誘導するタラムスは厭そうな顔をする。

 二晩を小舟で過ごしている間に、体調が崩れていくのを実感した。まともに食事をしないせいもあるだろうが、手足に力が入らず、全身を悪寒が走る。頭はぼんやりするし、気分は滅入るばかりだ。


「おい、熱が高いぞ」


 三日目になり、どこからともなく黒い狼姿のシトラーが調達してきたパンを食べていたメルローズは、カイロスが額に手を当てても黙々と食べ続けていた。シトラーはどこの厨房に入り込んだのか、籠いっぱいに詰め込まれパンを運んできた。もしかしたら、屋台のパンを奪ってきたのかもしれない。今朝焼いたところなのか、ほんのりと温かく柔らかい。


「調子が悪いなら、きちんと言え」


 怒ったようにカイロスが顔を覗き込んできたが、返事をするのも億劫だった。

 頭の芯がずきずきと痛む。父に似て健康だけは取り柄だったのに、こんなところで体調を崩すとは自分でも意外だった。

 なぜカイロスは風邪をひかないのだろう。魔神だからだろうか。でもアルジャナンの身体に魔神が憑いているだけだし、彼だって船酔いはしているし、疲れたり眠ったり食べたりしている。アルジャナンはあまり身体が丈夫ではなかったし、一晩徹夜しただけで目の下にくっきりと隈ができることが多かった。なのにカイロスは、少々身体を酷使しても、隈が出ない。メルローズほど眠っていないはずだし、食事だって摂っていないはずなのに。

 魔神カイロスが人間であるアルジャナンの身体に馴染んできたという証拠なのだろうか。このままアルジャナンの身体は、人間離れをしていくのだろうか。いずれカイロスがアルジャナンの身体から離れた際、本当にアルジャナンは無事なのだろうか。


「聞こえているか?」


 無言でパンを食べているメルローズの態度を不審に思ったのか、カイロスは額がくっつきそうなくらい顔を近づけてきた。


「目が充血しているぞ。焦点も合っていないようだし、重症だな」


 メルローズの顔をまじまじと観察し、カイロスは溜め息を吐いた。


「薬を手に入れる必要があるな」

「どうやって?」


 小舟の縁に顎を乗せ、河面から顔だけ出しているタラムスが問い返す。


「食料なら盗めばなんとかなるけれど、薬となると盗むにしても手間が掛かるんじゃないかな。この川に面した村に、まともな薬師がいればいいけれど」

「薬なら、自分で作れるわ」


 パンを咀嚼し終えると、メルローズはぼそぼそと答えた。


「薬草さえ揃えば、自分で調合できるから大丈夫」

「その薬草を調達するのが難しいんだ」


 苛立った様子でカイロスはメルローズを睨んだ。

 熱が上がっているためか、頬を紅潮させ、目が虚ろだ。

 口調はいささか呂律が回らない。


「解熱の薬草はねー」


 今度は頭がふわふわしてきたので、メルローズは次第に喋るのが億劫になってきた。

 空いている手を河面につけていると、冷たくて気持ちが良い。このまま川に飛び込んだら、熱が上がった身体も冷えるような気がしてくるから不思議だ。服の下で汗が流れるので気持ち悪い。朝晩は気温が下がるので涼しく、肌に触れる風は心地よいはずなのに、顔は火照っている。


「色々あるんだけど、規尼涅キニーネとか紫陽花とか牆麻しょうまとか防風ぼうふうとか独活うどとか」


 思いつく限りの名前を挙げてみる。


「それはこの辺りで手に入るものなのか?」

「んー、わからないわ」


 目の前のカイロスの顔は見えるが、周囲にどのような樹木が生えているかなど、まったくわからない。


「いまの季節は紫陽花の花なんて咲いていないし、独活は根を乾燥させないといけないの。牆麻はねぇ……」


 くすくすとメルローズが笑い声を上げると、カイロスは頭を抱えた。


「医者を探すのが早いのか、薬草を自分で探す方が早いのか」

「どちらだろうね」


 タラムスも困惑した様子だ。


「ひとまず、彼女は横になって安静にした方がいいんじゃないかな。冷たい川の水で濡らした布を額に当てておけば、少しは落ち着くかもしれないよ」


 病人となると魔神たちもお手上げらしい。


「医者にかかるにしても、治療費が要るからね。無銭旅行中だからで診てくれってわけにもいかないしね」

「とにかく薬だ、薬。お前は雑草と薬草は見分けられないのか? これだけ草が生えているんだ。熱を下げる薬草のひとつやふたつ、生えているんじゃないのか」

「僕にはそんな知識はないよ」


 カイロスとタラムスの口論が頭上で飛び交う。

 寝てろ、無理矢理押し倒すようにして小舟の底に横たわらせられたメルローズは、うるさいわね、と文句を垂れる。

 それに対する返事は、意識を失いかけていた彼女の耳には届かなかった。

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