第四章 7

 かつてイアサントの父は、悪魔を召喚し、自分の望みを悪魔の力によって叶えようとした。その代償として父は自分の娘であるイアサントの妹を差し出した。結果として彼の妹は悪魔に無残に食い殺され、父は現れた祓魔師によって悪魔ごと抹殺された。

 その一部始終を、幼かった彼は見ていた。すべては彼の脳裏に刻まれ、いまでも悪夢のように瞼に焼き付いている。

 どうせなら妹が悪魔に襲われる前に祓魔師が父を殺してくれたら、とまだ幼かった頃のイアサントは、一足遅く到着した祓魔師を恨んだものだ。

 悪魔は人を喰らう。決して、人と馴れ合う存在ではない。

 その事実を、イアサントは自分の目で見た。

 なのにいまだ悪魔を召喚したがる者が絶えないのは、どういうことなのか。悪魔の恐ろしさが、世界中に周知されていないのか。

 祓魔師である彼は、悪魔が召喚された後に悪魔を始末するしかない。悪魔が召喚されないよう、悪魔についての正しい知識を人々に伝え、布教に勤めるのは地域の教会に派遣されている司祭や神父たちの仕事だ。彼らが手ぬるい仕事をしているからこそ、この島のように悪魔の襲来を許し、島のほとんどが浄化の炎で焼かれなければならなくなってしまうのだ。彼らの、信仰心が足りないのだ。

 教会に島民たちを集め、司教たちが険しい表情を浮かべているのは、この島の信者たちの心構えを案に責める目的もある。あななたちがもっと強い信仰心を持って、悪魔を信奉する者を排除していれば良かったのだ、と無言のうちに咎める。

 島民たちは疲れた表情を浮かべているが、誰も無駄口を叩かない。悪魔憑きが娘とともに島から出ていったことも、手助けした者がいることについても、その名前についても、誰もが口を噤んでいる。

 島というのは、閉鎖された集落だ。

 独特の習慣や宗教観があり、これまでなかなか天主教の力が及ばなかった地域でもある。彼らは天主教を拒みはしないが、神の大いなる力を完全には信じていない。悪魔が召喚された今も、まだ声高に悪魔を召喚した魔術師を罵る者は出てこない。

 悪魔によって世界の終末がもたらされるかもしれないと脅しても、彼らは悪魔を庇うような真似までしている。

 この島は、最初から悪魔によって呪われていたのかも知れない。魔術師は悪魔の力に引き寄せられるようにして、この島にやってきたのかも知れない。それならば、島民たちが魔術師を非難しないわけも理解できる。

 浄化の炎を持ってしても、まだ悪魔の呪いは解けないのだろうか。それほどまでに、この島に巣くう悪魔の力は強大なのか。


「自分は今すぐ、オルドリッジへ向かい悪魔を追い掛けます」

「そうしなさい」


 禿頭の司教が大きく頷いた。


「オルドリッジでは気をつけろ。ラウジー司教らが待ち伏せている可能性がある」


 耳元でぼそりとしわがれた声で囁かれる。

 イアサントが眉を顰めると、相手は軽く頷いた。


「今度こそ連中の正体を曝き、粛清しなければならない。あれは、悪魔よりも質が悪い連中だ」


 上司の指摘はもっともだった。

 ラウジー司教らの派閥の教義に対する解釈は、悪魔信仰さえも容認する、異端どころではない矛盾したものだ。彼らは悪魔の力を利用し、この世界を掌握しようとしている。信仰の名を借りた政治活動をしようとしているのだ。

 これまでもなんどか、ラウジー司教らの行いを告発し、査問会にもかけられたが、明白な証拠がないということで不問にされてきた。

 悪魔を容認するなど、イアサントには到底受け入れがたい愚行だ。

 しかし、このままラウジー司教らを放置していては、彼らが会派の重要な地位について権力を握った際に面倒なことになる。

 イアサントは出世を望んではいない。祓魔師として世界を駆け巡り、悪魔を抹殺することに尽力することだけを考えていた。悪魔をこの世から完全に存在を消すことだけが彼の望みだ。悪魔を殺すためであれば、いくらでも自分の手が汚れても構わない。殺人者と呼ばれることも厭わない。

 妹が犠牲になる前に、悪魔を召喚しようとした父を殺さなかったことを、彼はいまでも悔やんでいた。その後悔の念だけが、いまでも彼を祓魔師として突き動かしている。

 悪魔はこの世界に存在してはならない。

 世界中あまねく神の光で照らされ、悪魔の影に人々が脅えることがない世界を作らなければならない。

 その信念を胸に、イアサントは祓魔師として剣を振るい続けている。

 悪魔を召喚するものは、すべて許されない罪を犯している。殺されて当然だ。

 一度瞬きをしたイアサントは、瞼の裏に蘇った妹の凄惨な姿を記憶の底にしまい込んだ。

 あの悪魔をラウジー司教らに渡すわけにはいかない。

 彼らはむやみやたらと悪魔を倒すのではなく、敵をもっと知らなければならないと理由をつけて、悪魔を捕らえようとしている。あきらかに悪魔の力に魅入られているとしか考えられない。

 聖賢の剣を失ってしまった心許なさはあるが、あの剣だけに頼らなければ悪魔を倒せないわけではない。自分はれっきとした祓魔師であり、剣以外にもたくさんの悪魔祓いの術は会得している。問題ない、と自分に言い聞かせた。

 悪魔を倒し、魔術師を根絶やしにする。それが神の御心に沿った行いのはずだ。

 預言者から、フロリオ島に悪魔が召喚されるようだと聞いたときから、彼の気持ちは定まっていた。このまま悪魔が地上に召喚されるのを待って、悪魔を倒しているだけでは後手に回るだけで本当の意味での人々の救済にはならない。悪魔に憑かれてしまった人々を助けることも重要だが、それ以前に悪魔が召喚できる呪術を使える者がこの世に存在していることが問題なのではないか。

 魔術師は近年になって天主教に迫害され続けたものだから、その活動を地下に移してしまった。彼らの存在は秘され、居場所さえもなかなか掴めない。預言者でも、悪魔が召喚されなければ魔術師の居所までは掴めないのだ。

 悪魔召喚術に長けた魔術師の一族の中でも、エルファ家の存在は大きい。天主教の仇敵とされる魔術師が多く輩出した一族でもある。いまではほとんど血筋が絶えているが、エルファ家の研究を受け継ぐ者や、末裔がいないわけではない。

 あの悪魔憑きの男と一緒にいた亜麻色の髪の娘も、エルファ家の子孫だろう。

 悪魔の存在を恐れるでもなく、祓魔師である自分に非難めいた視線を向けてきていた。

 彼女も殺さなければ、とイアサントは重い足取りで教会を出た。

 この世界のためとはいえ、妹のような女子供を殺すことはさすがに彼も気が咎める。それでも、生かしておいてはやがて世界に災厄をもたらすことになるかもしれないのだ。

 外に出たイアサントは、鉛色の雲で覆われた空を見上げた。

 風が吹き、香油で焼かれた草木の臭いを運んでくる。

 これは自分に与えられた試練なのだ、と自分に言い聞かせた。

 人殺しと罵られようと、世界から悪魔が消え失せるまで自分は殺戮を続けなければならないのだ。

 神は自分にその役目を与えられたのだ。


(いや、これは神の名を利用した個人的な妹への償いだ。それでも、やり遂げなければならないのだ――)


 港に向かって歩き出した瞬間、イアサントの瞳から迷いの色は消えていた。

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