第四章 4

 ぐっと胸を強く押されたかと思うと、喉から迫り上がった水を吐き出していた。

 焼け付くような痛みに耐えられず咳き込むと、目に涙が浮かぶ。

 上半身を抱え込むようにしてなんどか咳いた後、メルローズはうっすらと瞼を押し上げた。手足は怠く、肌には髪や服が張り付いている感触が気持ち悪い。


「大丈夫か?」


 アルジャナンの顔をしたカイロスが、目と鼻の先にいた。


「……ちっとも大丈夫じゃないわ」


 不満げにメルローズが答えると、カイロスは大きな溜め息を吐いた。


「意識があるなら大丈夫だな」


 どこが、と文句を言いたかったが、喋り続ける気力がなかった。

 周囲は暗く、カイロスの顔が月明かりでなんとか見える程度だ。

 額や頬に手を当てられると、相手の体温を感じることが出来る。

 アルジャナンが無事で良かった、とメルローズは自分が生きていることより先に、アルジャナンが生きていることに安堵した。

 ゆっくりと身体を起こすと、周囲がなんとか微かに見えるようになった。

 地面が揺れているような感覚に戸惑って辺りを見てみれば、小さな舟の上だった。どうやら、人がいない停泊中の小舟の中に引き上げられたらしい。

 二人が乗っていっぱいいっぱいの小舟は、釣り舟のようだ。

 いつのまにか空を覆っていた雲は薄く棚引いている。

 半月や星が見えるようになっていた。


「海に飛び込むなら飛び込むで、そう言ってくれないと困るわ」

「悪かったな」


 ぽんぽんと宥めるように頭を軽く撫でられた。

 そういう仕草はアルジャナンと同じだ。


「魔術で派手にあの聖職者たちをやっつけてしまえば良かったのに。鏖殺師と戦った時みたいに、片手でぽんっと」

「あれは、相手がこちらに魔力を向けてきたものだからできたことだ。この男は大して魔力を持っていないから、自前で魔術を使うことが難しい。それに、派手なことをして目立つと後々面倒だろう?」


 どちらかといえば、後半の方が本音のようだ。

 やろうと思えばいまだって、指を鳴らしただけで魔術が使えるに違いない。

 アルジャナンだってまったく魔力がないわけではないはずだ。魔神を憑かせることができるだけの身体なのだから、それなりに魔術の素質はあると考えられる。


「人の身体に憑くと、色々と厄介なのだ」


 ぼやいたカイロスの髪や服も濡れている。


「まったくだねぇ」


 波間から新たな声が聞こえた。

 ぎょっとしてメルローズが振り返ると、海面からタラムスが顔を出していた。

 水が人の顔や腕を形作っており、半透明なので、かなり不気味だ。

 オリヴィエの洞窟から姿を消したと思っていたら、こんなところまでついてきていたようだ。


「僕が助けなければ、いくらカイロスでも海に沈みかけている君を捕まえることはできなかったんだよ」


 恩着せがましく告げるタラムスは、この現状を楽しんでいるように見える。


「なんにせよ、間に合って良かった」


 疲れた様子でカイロスが呟く。


「……ありがとう」


 こうして生きていると、アルジャナンの顔を見られて良かったと思えるから不思議だ。


「別に君が礼を言う筋合いはないんじゃないかな。勝手に海に突き落としておいて、乙女の唇を奪ったわけだし」

「――あれは人工呼吸だ」


 即座にカイロスが反論したが、タラムスは目を細めて笑う。


「ちょっと!」


 動揺のあまり思わず立ち上がりかけて、足下が揺れたところでメルローズは自分が小舟に乗っていることを思い出した。


「そういうことこそ指を鳴らして……!」

「無理だと言ってるだろうが」


 真っ赤になったメルローズに詰め寄られ、カイロスは顔をそらす。


「魔神だからといって、なんでもできるわけではないんだ。そこのタラムスだって、水さえあればどこにでも顔を出すことはできるが、人助けなんてできないんだ」

「僕は海の中で彼女を探すことはできたよ」

「その後、ここまで引き摺り上げたのは俺だし、人工呼吸したのも俺だ。お前だと、反対に溺死させるだろうが」

「確かに、人工呼吸をしたら反対に海水を飲ませることになるね」


 ふふっとタラムスが笑う。

 強く唇を噛み締めて、涙目になりながらメルローズは二人を睨み付けた。

 助けてもらったありがたみが半減した。


「ところで君、もしかして接吻した経験はなかったり……」


 タラムスが興味深げに訊ねてきたので、メルローズは小舟に顔を突っ伏して無視した。


「あれ? 機嫌を損ねてしまったようだね」


 飄々とした口調でタラムスが呟く。


「それは女に聞くべきことじゃないことくらい、俺でもわかるぞ」


 責めるような目つきでカイロスがタラムスを睨む。


「君にも、人を思い遣るような面があったとは意外だな」

「俺だって、人に憑いていればそれなりに社会性が身につくものなんだ」


 なんで自慢げなのよ、と心の中で叫びつつ、メルローズは目を閉じた。

 全身が怠く、体内は寒気がする。服や髪が濡れているせいか、夜風に晒されて身体から体温が奪われているような気がする。これからどうなるのかも不安だった。

 ノエリアやライアンに裏切られたとは考えたくはなかったが、現実としては裏切られたのだろう。

 天主教の教会のひとつに助祭として赴任しているドーソンのことを思えば、ライアンやノエリアが熱心な天主教の信者でなくとも、聖職者たちに恩を売っておきたい気持ちはわからないでもない。いつかドーソンが出世できるように、と彼らは考えたに違いない。ゲイル家は代々の漁師だが、そろそろ漁船を新しくすることを検討しているとノエリアも言っていたではないか。ドーソンも助祭から司祭になれば、実家に仕送りをしてくれるようになるかもしれないし、ライアンが船を新調する際に援助してくれるかもしれないのだ。

 これからどうすれば良いのか、頭が働かない。

 父とアルジャナンがいたからこそ、魔術に関わって生きていくつもりでいたのだ。二人を失ってしまったいま、魔神カイロスがそばにいるからといって、彼女自身はなにもできることはない。

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