第四章 3
薄荷茶を飲んで多少気分も落ち着いたらしいカイロスが、物言いたげに自分を見つめていることに気づくと、籠の中のパンに揚げた魚を挟んで渡した。
受け取ったカイロスが、無言でそれにかぶりつく。どうやら彼も腹が空いていたらしい。
メルローズは満腹になると、ようやく気分も落ち着いてきた。林檎酒を飲んだおかげか、手足も温まってきている。
潮風に吹かれていると、肌に潮の匂いが付く。それがまた心地よかった。
本土へと向かう海の風は、エルファ家のすぐそばの海岸で吹く風よりも温かく感じる。
「もうすぐ、本土の港だ」
それまで黙って漁船を操縦していたライアンが、操舵室から顔を出して告げた。
船の進行方向には、大きな灯台が見える。港町の明かりなのか、きらきらと明るく輝く光が見えた。
港に近づくに連れて近くを航行する船の数が増えてきた。
汽笛を鳴らし、ライアンが他の船の船員たちに手を振る。
夕刻だというのに、港は賑わっていた。埠頭の周辺には大勢の人が集まり、荷物の上げ下ろしで忙しそうだ。
ライアンは器用に船を操り、他の船と船の隙間を縫って、空いている船着き場へと自分の船を向かわせた。
「着いたぞ」
船着き場では、十歳くらいの帽子をかぶった少年が待ち受けていた。
ライアンが船を係留させるための縄を投げると、それを受け取った少年が港の杭に結いつける。
やはり桟橋はないので、船の先端から港へと、少年の手を借りてメルローズは飛び移った。その後をカイロスとライアンが続く。
ライアンが少年に小銭を渡すと、彼は帽子を取って軽く会釈をした。ズボンのポケットに小銭をしまい込むと、すぐに別の係留しようとしている船を見つけ出し、そちらへと走っていく。
港には人足らしき男たちが、掛け声を上げながら作業をしていた。
夕方だというのに魚の水揚げをしているところもあれば、大きな木箱の荷揚げをしているところもある。
大勢の人が行き交い、雑多な臭いがする。
潮と魚の臭いだけでなく、船を動かす油の臭いや、それが燃えて出る煙の臭い。物が腐ったようなわけのわからない臭いや、屋台から揚げたて、焼きたての海産物の匂いも漂ってくる。
ここはこんな活気がある場所だったのか、とメルローズは物珍しげに辺りを見回した。
以前、フロリオ島へ向かう際は、本土から逃げなければという気持ちでいっぱいだったせいか、よく見ていなかった。
港でさえこんなにたくさん人がいるのであれば、自分とカイロスの二人くらいここに混ざっていたところで、誰も自分たちが異端者だなんて気づかないだろう。
容姿はいたって平凡だし、言動も普通だ。どちらかといえば、目立つことをしろと言われる方が困るくらい、雑踏に紛れ込むことができる。この中で迷子になってしまえる自信はある。
あまりの人混みに驚いたのか、カイロスがメルローズの腕を掴んで引き寄せた。
「凄い人だな」
耳元に口を寄せ、カイロスがぼそぼそと囁く。
「本土では一番大きな港だもの。もっと奥まで埠頭は続いていて、外国からの旅客船が停泊するような場所もあるのよ」
自慢げにメルローズが説明すると、カイロスは軽く目を瞠った。
背が高く大柄なライアンは、この群衆の中でも頭ひとつ分突出しているので、そう簡単に見失うことはない。
埠頭に沿って歩くライアンの後を二人はついていく。
五分ほど歩いたところで、ライアンは立ち止まった。
いかにも海の男といった屈強な体格の男たちが三人、ライアンの前に立ちはだかったのだ。日に焼けた赤ら顔の彼らは、あまり好意的な雰囲気を漂わせてはいなかった。
「よお、ライアン。それが例の奴らか? ひとり足りないようだが」
じろじろと彼らはメルローズとカイロスを不躾に睨む。
「ひとりはこられなくなった。この二人だけだ」
小声でライアンが答える。
(二人だけ? ひとりはこられなくなったって、まさかお父様のこと?)
なぜ自分たちが全員揃っていれば三人だと、この男たちは知っているのか。
メルローズは不安な気持ちに駆られ、カイロスのそばに一歩身を寄せる。
「――どういうことだ」
カイロスが厳しい口調で問い質す。
「まさかお前、俺たちを人買いに売ろうって算段か?」
いつになく荒々しいアルジャナンの話し方に驚いたのか、ライアンが振り返る。
「違う。彼らは君たちを安全な場所へと連れて行ってくれる」
「安全?」
「島にやってきた祓魔師から身を守れる場所に匿ってくれるんだ」
ライアンが言い募ると同時に、目の前の三人の男たちが横に移動した。
男たちの背後には黒ずくめの聖職者姿の男が二人、にやけ顔をして立っていた。
「それがお前の島にいるという魔術師か」
背の低い、恰幅の良い男の方が、カイロスとメルローズに目を遣り、薄気味の悪い含み笑いを浮かべた。頭は薄く禿げ上がり、司教階級が着る礼服は似合っていない。身体からは禁じられているはずの酒と煙草と白粉の匂いがする。
「とても魔術師には見えないが」
もうひとりの中肉中背の男は、冷ややかにカイロスを睨んだ。
全身が黒ずくめなためか、短く刈った黒髪と吊り上がった細い目が酷薄な印象を与える。
どちらも、天主教の聖職者だ。
「そのように警戒せずとも、我々はお前たちを殺す気は無い」
歯茎が見えるくらい唇を歪めて笑った背の低い男は、爬虫類に似た不気味さを漂わせていた。
「お前たちは、祓魔師によって追われているのだろう? あの祓魔師は、預言者の預言の解釈を間違え、勝手に行動している。お前たちの島に向かった司教たちも、祓魔師同様に正しい預言の解釈ができない連中だ。彼らはお前たちを殺して事を収めようとしているが、そもそもそれが間違っている」
背の低い男は、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「儂たちがお前たちを保護してやる。儂たちは、魔術そのものが悪いものだとは考えてはいない。神は預言者を通して儂たちに預言を下さるが、そこで一度たりとも魔術が悪などとおっしゃったことはない。魔術を使う者の中には悪魔に憑かれる者が格段に多いとおっしゃっているだけだ。その上で、悪魔を祓うのが儂らの仕事だというのに、あの祓魔師どもはやたらめったらと悪魔憑きを殺そうとする」
「俺たちをどうする気だ」
警戒心も露わに、カイロスが訊ねた。
「悪いようにはしない」
意地の悪い笑みを浮かべ、背の低い男が告げる。
「……信用できないな」
しばらくの間、二人の聖職者を睨んでいたカイロスは、断言した。
次の瞬間、カイロスは手にしていた聖賢の剣を海へと放り投げる。
船と船の隙間を縫って、聖賢の剣は衣に包まれたまま宵闇迫る海の中へと落ちた。
あ、とメルローズが剣の行方を目で追い掛けていると、今度は彼女自身の足が地面から浮いた。あっというまに、カイロスに抱きかかえられていたのだ。それに気づいた瞬間には、ふわりと浮いた身体は重力に従い落ちていた。目の前には海面が迫っている。
「え……?」
なにが起きたのか察するより先に、身体が冷たい水で包まれていた。服が一気に水を含み、重くなる。暗い海の中で、スカートの布が足にまとわりつく。手足をまともに動かすことなどできない。
息を止める暇もなく放り込まれたものだから、口を開けた途端に喉まで海水が流れ込んできた。海水が肺に達するのをなんとか阻止しようとするが、身体はますます海面から離れ沈んでいく。
さきほどまで彼女の腕を掴んでいたはずのカイロスの手は、どこにもない。
どうなっているのか。
ゆっくりと海の底に沈んでいく。
大型旅客船が停泊できるだけあって、埠頭の間際でもかなり深いようだ。
こんなところで自分は死ぬのだろうか。
目を開けていられないので、瞼を閉じ、メルローズは覚悟を決めた。手足をばたつかせたところで、泳げないだからどうしようもない。
(――アルジャナン。せめてあなただけでも生きて)
やっぱりエルファ家の繁栄なんて無理だったじゃないの、と最後に文句のひとつでもカイロスに言いたかったが、もう無理だろう。
意識が遠退く寸前、強い力に抱きかかえられるような気がした。
亡くなって久しい母が迎えに来てくれたのであれば嬉しいのだけど、とメルローズは願った。
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