第四章 2

 フロリオ島の港はひとつだけだ。

 主に漁港として漁船が停泊している。

 本土を行き来する船も利用しているが、ほとんどは漁船がついでに人を運ぶだけで、定期運行している商船はない。

 教会から遠く離れた島の端の小径を通り、メルローズとアルジャナンはノエリアの案内に従って港へと辿り着いた。すでに夕刻に近づいており、空は薄暗くなりつつあった。本土までは船で一時間ほどの距離だが、この分だと夜陰に紛れて本土に上陸することになりそうだ。

 本土の港では、異教徒だからといって上陸を拒まれることはない。

 異端者が迫害されるものでもない。

 クラレンスのように魔術師であることを大っぴらにする者にとっては暮らしづらい場所だが、異端であることを隠していれば、異教を信仰しているからといって咎められることもない。

 複数の島で構成されるジエルラント国は、本土オルドリッジ島でさえ天主教教徒はまだ半数に満たない。首都ゴドルフィンはさすがに約七割が天主教教徒だが、大陸ほど天主教が浸透しているわけでもない。

 大陸の西に位置する聖山シャンティを本拠地とする天主教は、オルドリッジからもそう遠くない場所だが、海を挟んでいるせいか、布教活動の効果はいまひとつらしい。

 クラレンスがフロリオ島まで移ったのは、ジエルラントの中でも最果ての島であるフロリオ島ならば教会の目も届かないだろうと考えたからだ。まさか預言者が、自分の魔神召喚成功を預言して鏖殺師をフロリオ島まで派遣するとは、クラレンスも想像していなかったに違いない。


「さぁ、二人ともこっちだ」


 漁船では、すでに出港の準備が整っていた。

 ライアンは桟橋のそばに船を着け、二人が乗り込むのを待っていた。

 波は荒く、船は大きくゆらゆらと揺れている。

 ライアンの手を借りておそるおそる船に乗ったメルローズは、甲板に足を着けた途端、座り込んでしまった。


「大丈夫か?」


 心配そうにライアンが顔を覗き込んでくる。

 同時に、メルローズが口を開くより先に、腹が鳴った。


「腹が空いているのか?」

「……昨日から忙しくて、食事をしていなかったものだから」


 よくここまで辿り着けたものだと自分でも感心する。よく考えると、丸一日なにも食べていなかったのだ。


「パンくらいならあるぞ」


 船室から籠を持ってくると、ライアンはそれをメルローズの膝の上に載せた。


「好きなだけ食えよ」


 かぶせられている布巾を取ると、パンが五つと、揚げた魚が三切れ入っていた。

 ライアンの母親が、弁当として持たせたのだろう。

 一緒に、瓶に入った林檎酒と薄荷茶ミントティーが入っている。狭いフロリオ島は飲める水が乏しく、井戸水も僅かしかない。果物酒の方が手軽に入るのだ。


「アルジャナンも食べるといい」


 甲板に飛び移って乗り込んできたカイロスに、ライアンが声を掛ける。


「ありがとう」


 アルジャナンの顔をしてカイロスが返事をする。

 すぐに船は出港した。

 見送ってくれたノエリアにメルローズは一生懸命手を振ったが、すぐに姿が見えなくなった。

 波は黒く、不気味にうねる。

 風は強く吹き荒び、そんな中でも鴎たちは群れを作って、白い翼を広げ、船を追い掛けるように飛んでいる。

 フロリオ島の影を、メルローズはしばらくぼんやりと眺めていた。

 ところどころで、まだぽつぽつと炎が上がっている。灯台の明かりもちらちらと見えるが、炎の方が煌々と燃えていた。

 港に向かう途中で通った道の中には、香油のせいか酷い異臭がする場所がたくさんあった。あんな臭いがする油で焼かれて、あの場所は本当に浄化されたと言えるのだろうか。火が消えた後、きちんと畑として作物を植えることができるのだろうか。

 聖職者たちの都合に合わせて島の人々が翻弄されるなど、あってはならないことだ。

 さすがにカイロスも疲れたのか、メルローズの隣に座った。身体が船に慣れていないこともあり、顔色が悪い。

 そういえば最初にフロリオ島へ越した際、船に乗るのは初めてだというアルジャナンは、出港直後から深刻な船酔いに悩まされていた。


「大丈夫? 酔ったんじゃないの?」


 中身は魔神カイロスとはいえ、肉体はアルジャナンだ。そう簡単に体質が変わるわけではないだろう。


「……少し」


 悔しげに答えたカイロスの額には、脂汗が浮かんでいる。


「何だ、この気分の悪さは。吐き気がするどころではない。臓腑がひっくり返りそうだ。なにかの呪いか」


 船酔いが理解できないらしく、小声でぶつぶつと悪態を吐く。


「ただの船酔いよ。吐くなら、海に吐いてね」


 甲板を汚してはライアンに申し訳ない。

 昨日から食べていないのはアルジャナンだったカイロスも同じだから、胃の中にはほとんどなにも残っていないはずだ。せいぜい胃液と唾液くらいしか出てこないはずだが、吐けば少しはましになるだろう。


「林檎酒を飲む? それとも、ミンのお茶を飲む?」

「……薄荷の方」


 片手で口を覆い、カイロスは息も絶え絶えに答える。

 もう片方の手では衣で包んだ聖賢の剣を抱えているが、まるで心のよりどころが剣にしかないといった様相だ。

 カップに薄荷茶を注ぎ渡すと、カイロスは無言で飲み干した。

 メルローズは遠慮無くパンを食べ始める。

 林檎酒を喉に流し込むと、胃の中が温かくなった。

 父とアルジャナンと一緒にフロリオ島へ渡ったときは、二度と本土へ帰ることはないと思っていた。母の墓に参ることもなく、自分はフロリオ島で一生を終えることになるのだと覚悟を決めていた。

 エルファ家の血を継ぐ者として生きていくためには、それも仕方のないことだと考えていた。

 まさか自分が生きているうちにフロリオ島を出る日が来るとは。

 なだらかな丘が続く島は、不便な面も多いが、島民たちは親しみやすく、まったく縁もなくやってきたメルローズたちにも優しかった。一風変わったクラレンスでさえ、すぐに島民たちは受け入れてくれた。

 こんな住み心地の良い島はない、とクラレンスも感動していたくらいだ。

 魔神召喚を実際に試そうなんてしなければ、学術書を読み漁り、論文を書いているだけの研究者であれば、クラレンスはいまでも無事に生きていたはずだ。魔術師としての実力など乏しく、名ばかりのエルファ家の末裔として辺境の地で細々と研究を続けているだけで良かったのに。

 腹立たしいやら悔しいやらで、メルローズはパンをむさぼるように食べた。

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