第三章 4

 洞窟から出ると、海岸から崖の上まで続く坂道をさきほどとは逆に上った。

 昨日の昼以降はなにも食べていないせいか、それとも疲労のためか、手足に力が入らない。数歩先を歩くカイロスの背中を追い掛けるようにして足を動かすが、身体が重い。オリヴィエに会いに行くまではなんとか保たせることができた気力も、とうに萎えていた。

 頭もほとんど働いてはいない。なんとかしてアルジャナンの身体からカイロスを祓わなければ、と気持ちは逸るが、策があるわけではない。万象の書の司書を探し出せばなにか教えて貰えるかも知れないが、方法などないと一蹴される可能性だってある。もしカイロスとの契約が破棄できなければ、アルジャナンは一生カイロスに身体を奪われたままとなってしまう。

 いまはなにも考えるべきではない、とメルローズは自分に言い聞かせた。悩むのはもっと後でもいいはずだ。まだ現実を正確に把握できていない状況で、心配したところで徒労に終わるだけだ。

 メルローズの歩調が遅いことを気にしてか、カイロスは斜面を上がる途中で度々立ち止まった。振り返って彼女を見下ろす眼差しは、アルジャナンと同じだ。やはりあれは魔神が憑いた姿ではなく、アルジャナン自身ではないのかという淡い期待を抱いてしまう。

 そろそろ午後を迎えるはずの時刻だが、空は厚い鉛色の雲で覆われたままで、太陽の位置は確認できない。周囲は薄暗かった。時を知らせる教会の鐘の音は、この辺りまでは聞こえてこない。代わりに、海岸の絶壁に打ち付ける波の音だけが耳に響く。


「焦げ臭いな」


 斜面を半分以上登りきったところで、カイロスが低く唸った。

 メルローズは大きく息を吸ってみるが、嗅ぎ慣れた潮の匂いが鼻に付くだけだ。

 必死に足を動かし、斜面を登り切ったところで、ようやく異変に気づいた。

 夕暮れでもないのに空が赤く染まっている。灰色の雲は薄く赤味を帯び、その下の地上からは黒い煙と真っ赤な炎が立ち上っている。エルファ家から遠く離れた土地だが、それでも火の手ははっきりと確認することが出来た。


「燃えているわ」


 呆然とメルローズは呟いた。

 風向きの影響か、焼ける臭いまではしなかったが、方角から判断すると隣家のかぶの畑だ。まだ種を蒔いたばかりの季節。畑を焼くような真似は普通ならばしない。


「聖油の臭いがする」


 鼻を動かしたカイロスが指摘する。


「聖油?」

「天主教の聖職者たちが、浄化と称して物を燃やす際に、油の中に香料を混ぜた物だ。聖油を使えば魔が祓われるということになっている。油に混ぜただけの状態であればかすかに柑橘系の匂いがするだけだが、火を付けると酷い悪臭がする。その細工を利用して、燃える際に悪臭がするのは魔が炎で焚かれているからだと連中は説明することが多い」

「そんなの、嘘っぱちじゃないの!」


 辺りを見回せば、燃えているのは隣家の蕪畑だけではない。あちらこちらから火の手が上がっている。


「あの鏖殺師が、浄化と称して島中に火を点けているというの?」

「鏖殺師の仕業にしては手際が良すぎる。それに、あの男の目的は俺を殺すことだ。聖賢の剣を失ったからと言って、腹いせに島中を浄化したところで俺を殺せないことくらいはわかっているだろう」


 聖賢の剣は、オリヴィエの衣に包まれてカイロスの手の中にある。

 エルファ家の敷地は、すでに燃やす物などない状態だ。先に聖賢の剣によって落とされた稲妻により、全ては失われており、焦げた土だけが残されている。ここにほんの半日前までは家が建っていた形跡すらない。

「あの鏖殺師以外にも聖職者がこの島を訪れているんだろう。預言者が魔神の出現を預言したのであれば、本部も鏖殺師をひとりでこの島に派遣するとは考えにくい。助勢する者も一緒に送り込むはずだ」


「でも、あの鏖殺師はひとりで現れたわよ?」

「手柄を独占しようと、ひとりで先走ったんだろう。あの連中は、お互いに足を引っ張り合うことが多い。功績を挙げるためには、他の連中を出し抜く必要があるのだろう。その結果、失敗して失脚する者も多いと聞く」

「詳しいのね」

「天主教についての噂は、地下までよく伝わってくる。聖職者とは名ばかりの堕落した連中の話や、鏖殺師の失態。誰が悪魔呼ばわりされて祓われただの、誰が聖職者を返り討ちにしただの。一昔前までは俺たち魔神にとって一番身近な人間は魔術師だった。それがいつのまにか、魔術師たちは新興宗教の聖職者たちによって抹殺されるようになり、魔神たちを召喚できる者は地上にはほとんど存在しなくなった」


 魔神は悪魔として天主教からは忌み嫌われている。

 彼らは魔神の本質を理解しているわけではない。自分たちが信仰する唯一神の存在を脅かすものとして、無闇に一掃しようとしているだけだ。同様に自然や精霊などの古い信仰もすべて否定されつつある。

 神はたくさんいた方が良いではないか、とメルローズは考えるのだが、ここ百年ほどの間に多神教は大陸の中央部からは消えつつある。辺境の地には、いまだ天主教を信仰しつつも古い神々を崇める風習は残っているが、ここフロリオ島でも若年層の中には自然神は敬わない者も増えていた。


「教会は、自分たちにまつろわない者を異端者として宗教裁判にかけては殺している。聖職者の中には、鏖殺師のように裁判など通さずに、邪教の信徒、もしくは悪魔憑きとして邪魔な者を殺すことができる者もいる。目的は異端者たちが持つ財産だ。教会は、悪魔憑きの者が所有していた財産を浄化するという名目で次々と没収している。もしくは悪魔を祓うためとして財産を寄進させ、多額の寄進者に対しては悪魔が祓われたと認めてやる方法を採っている。連中はそうやって財を増やし、いまのような力を手に入れた」

「詐欺だわ」


 メルローズは憤慨しつつ、燃えている畑に目を遣った。

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