第三章 2
「しかしこの男は、魔神と契約を交わそうとはしなかった。はっきりとは知らなかったようだけれど、魔神と契約する際になにかを損なう羽目になることを知っていたのだろう」
「代償を求められないようにするために、オリヴィエはあなたを魔術で作り上げた檻の中に閉じ込めたというの?」
ただの古びた陶器のカップだと思っていたら、魔神を閉じ込めるために周到に準備をした檻だったとは。
「掟破りの術だから、捕まえたからって安心できるわけじゃないんだ。常に、その魔神を意識し、支配していなければならない。気を許せば、このような末路を迎える」
オリヴィエの成れの果てを満足げに見つめるタラムスは、捕らえられていたことを楽しんでいた様子すら見られる。
「しかし、二十年もかかったとは意外だな」
タラムスをよく知るカイロスには、二十年という歳月が信じられないようだ。
「言っただろう? 最初の数ヶ月は自力で脱出しようとした、と。半年でかなり無駄に魔力を使ってしまった上、相手に多くの手の内を見せる羽目になってしまったんだ。完全に研究の対象として記録を取られてしまったからね。僕という存在が詳細に人間に発表されても困るので、しばらくおとなしく機会を待つことにしたんだ」
「それで二十年も待ったのか?」
「いいや。二十年も待ち続けたのは、この剣だよ」
片手で掴んでいた聖賢の剣を振り上げると、タラムスは顔をほころばせて優美な剣の刃を愛でた。
「僕がここに捕らえられて一年ほど経った頃かな。この洞窟を万象の書の司書が通りがかったんだ」
「司書が!?」
思わずカイロスの背中を掴んだまま身を乗り出し、メルローズは声を上げた。
「そう。さきほど、この男にあなたが訊ねていた万象の書の司書が現れたんだ。司書は常に世界中を移動しているから、運が良ければ司書が自分の目の前を通りがかることもあるんだ。そのとき幸運にもこの魔術師が不在だったものだから、僕はこの場に現れたそれが司書であることに気づくとすぐ呼び止めて訊ねた。ここから解放されるにはどうすれば良いか、と。すると、司書は答えた。聖賢の剣で自分を捕らえた者の首を
「答えてくれたの?」
「司書だからね。万象の書に記されている範囲ならば、訊ねたことに対して的確な答えをくれる。嘘は言わない。ただし、万象の書の内容どおりにしか答えてくれない」
「内容どおり……つまり、万象の書に記されていれば助言をくれるし、記されていなければなにも答えは返ってこないということ?」
「その通り。そして、その助言をどのように解釈するかも自分に委ねられる。僕は、司書が去ってからしばらく考えた。司書は僕の質問に対して、答えをくれた。そして、これはつまり、僕がいずれ聖賢の剣を手にしてこの魔術師の首を刎ねることができる、ということを意味しているのではないかという結論に達した。僕はこの洞窟に捕らわれてはいるけれど、司書の助言に従えば聖賢の剣はいずれ僕の目の前に現れる。そのときまで、僕はおとなしく待っていた方が賢明に違いない、ということで二十年待ち続けたわけだ」
「いくら司書の助言があったとはいえ、気の長い話だな」
二十年という月日が魔神にはたいしたことがないとはいえ、瞬きをするよりは長い時間だ。その間、じっとこの薄暗い洞窟の中で
「僕は一度、司書を試してみたかったんだ。本当に司書は万象の書を正しく読み解いているのか、とね。もしこの魔術師が、聖賢の剣を手にした僕によって首を刎ねられる前に死んだとすれば、司書は間違ったことになる。この魔術師は僕を捕らえたときでさえすでに高齢だったから、試した結果が出るまでそう時間がかからないだろうと思っていたんだ。さすがに僕も剣を手に入れるまでに二十年かかるとは想像しなかったけれど、それ以上に今日までこの魔術師は生き存えたことの方が驚きだな」
「お前の魔力を啜って生き延びていたのではないのか? あのカップにお前を捕らえ、さらにあのカップから溢れ出る水を飲んでいたのであれば、お前の魔力が混じっていたはずだろう。その魔術師にとっては、命の水だったはずだ」
「なるほど。だから、この男はかつてのようには洞窟の外へ出なくなったのか」
カイロスの推測に、タラムスはすんなりと納得した。
「お前がその魔術師の首を刎ねた瞬間、司書の助言が外れなかったことが証明されたというわけか」
「そうだね。さすがは万象の書の司書だ」
ようやくオリヴィエの首を机の上に置くと、タラムスは軽く指を鳴らした。
途端に、洞窟の天井から音もなく水が染み出して溢れ、隅に置かれていた書物や紙束をぐっしょりと濡らし始めた。水は地面に落ちるとそのまま砂と小石の隙間の地中に染み込んでいくが、次から次へと止めどなく水は滴り落ちてきた。水に濡れた書物や紙束は、インクが染み出し、紙面に書かれていた内容がすべて溶けるように消えていく。
「これらは魔術師による僕という魔神に関する記録だ。さすがにこれだけは地上に残しておけないから、始末させてもらうよ」
書物と紙束は水にふやけ、次第に紙そのものがばらばらに溶け始めた。
「お嬢さんは僕のために聖賢の剣を持って現れてくれた恩人だし、話の途中でこの魔術師を殺してしまったお詫びもかねて、さきほどあなた方が話題にしていた司書について、僕が知っていることを教えてあげるよ」
「え? まさか、あなたはどこへ行けば万象の書の司書に会えるか、知っているの?」
オリヴィエが死んだことで、万象の書の司書を探す手掛かりを得られなくなったと失望していたメルローズは、心が躍るのを感じた。
「司書がいまどこを彷徨っているのかは知らない。あれは、世界中を隈無く巡り、万象の書の記載どおりであるか検分して回っているんだ。万象の書には記入漏れは許されないからね。司書は万象の書の司書であると同時に、世界が滞りなく稼働しているかを調べる見張り役でもある。かつて、森羅万象の始まりから終わりまでを記した神々によって司書という役目を与えられた瞬間から、司書はこの世界を監視し管理しているんだ」
「管理――」
言い得て妙だ、とメルローズは感心した。
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