第三章 1

「そう。それは、悪いことをしたね」


 オリヴィエの首を抱きかかえ、剣を握った方の手で愛でるように老人の髪を指で梳きながら、タラムスは微笑みつつ詫びた。


「話の邪魔をしてはいけないとは思ったのだけど、すぐ目の前にとても素敵な剣があったものだから、我慢できずに手を伸ばしてしまったんだ」


 口先とは裏腹に、タラムスは悪怯れた様子がなかった。


「お前こそ、ここでなにをしている」


 メルローズを背中の後ろに隠しながら、カイロスは相手を睨め付けつつ訊ねる。

 シトラーはぐるぐると喉を鳴らしつつも、ゆっくりとカイロスの前まで後退した。


「しばらく、地下宮殿では姿を見なかったように思うが」

「僕としたことがへまをして、この男に捕らわれていたんだ」


 目を伏せたタラムスは、オリヴィエの首に視線を向け、まるで恋人を眺めるように恍惚な笑みを浮かべた。


「人間に捕らわれていた? お前が、か?」


 にわかには信じ難いらしく、カイロスは不審そうに相手を凝視する。


「この男はかなり狡猾でね。僕もまさか、自分が人間ごときに捕らえられるとは思わなかったよ。かなり矜持を傷つけられたね」


 わずかに目を伏せると、口元に薄く笑みを浮かべ、オリヴィエの首を眺める。


「あのカップは、この男が魔術によって作り上げた、僕を閉じ込める檻だったんだ。でも、そこの彼女が持っている剣のおかげで、この男を殺し、檻を破ることができた。本当に助かったよ。ありがとう」


 タラムスは顔を上げると、メルローズをまっすぐに見つめ、微笑む。

 魔神だとわかっていても惚れ惚れせずにはいられない、極上の笑顔を向けられ、メルローズは焦った。カイロスの背中から少しだけ顔を覗かせ、美しすぎる容貌を観察する。人間に取り憑いていないせいか、人の形を取ってはいるが、すべてが完璧すぎる彫像のようで、反対に近寄りがたい。


「いえ、あの……どういたしまして」


 目の前のタラムスに気後れしたメルローズは、すぐにカイロスの背中に隠れた。羨むどころの話ではないタラムスの美貌は、見ているだけで目の毒だ。もしカイロスがアルジャナンに取り憑かなければ、タラムスのような見目麗しい容姿なのだろうか。だとしたら反対に畏れ多くて近寄ることもできないだろう。


(カイロスがアルジャナンに取り憑いてくれて良かった)


 アルジャナンに憑いているためか、カイロスはとても人間臭く感じる。意外なことに、カイロスは魔神とは思えないくらいメルローズを気遣ってくれるし、さきほどだって鏖殺師から自分を守ってくれた。父が召喚し、契約した魔神だから、ということもあるのだろうが、とても親しみを持てる。

 一方のタラムスは、神々しさが全身から溢れ出ている。いかにも崇め奉られるに相応しい雰囲気を漂わせている。


「二十年、ここで待ち続けた甲斐があったよ」

「そんなに捕らわれていたのか? お前ともあろう者が?」


 タラムスの行動がカイロスには予想外だったらしく、まじまじと相手を見つめる。

 メルローズも黙って相手を観察した。

 オリヴィエは魔神の召喚に成功したとはこれまで一度も言わなかった。父であれば嬉々として自慢しただろうに、オリヴィエは二十年間ずっとひとりで隠していたのだ。まるで捕らえた小鳥を籠に閉じ込めてひとり眺めて楽しむように。


「最初の数ヶ月は自力で脱出しようと頑張ったのだけれど、この男が魔術で作り上げた檻はかなり強力でね。この僕でも簡単には破ることができなかったんだ」

「お前を捕まえることが出来た時点で、かなりのものだろう」

「確かにね。この魔術師はとても狡猾な罠を仕掛けてきたよ」


 くすくすと思い出し笑いをするタラムスは、相変わらずオリヴィエの首を大事そうに抱えていた。首の切り口から流れ続けている鮮血が、タラムスの服を緋色に染めていく。

 その仕草さえも不気味さを通り越して美しい。

 狂気とはまた異なる美しさがある、とカイロスの背後からこの二柱の様子を窺いつつ、メルローズは黙って耳を傾けていた。

 感覚が麻痺してきたのか、オリヴィエの首を眺めていても、悲しいという感情はタラムスの姿を目にした瞬間から、どこかへ消え去っていた。過去に一度しか会ったころがないせいかもしれないが、涙の一滴も瞳には浮かんでこない。

 昨日から怒濤の勢いで様々なことが立て続けに起きているせいか、知人が死んだくらいでは嘆く気力も沸いてこなくなったのかもしれない。


「彼は、いかに自分の手を汚さず、魔神を捕らえるかという研究に没頭していたようだね。君は魔術師が召喚した際しか地上には姿を見せないが、僕のようにふらふらと地上を彷徨うものもいることを彼は知っていたんだ。そして悔しいかな、そんな神の捕らえ方も、ね」


 魔神を魔法陣による召喚術以外で捕縛することができるとは知らなかったメルローズは、俄然話に興味が湧いた。オリヴィエは十代半ばでメルローズの曾祖父に弟子入りした人物だが、どのような研究をしていたのかについては、具体的にはよく知らなかった。エルファ家が得意とする魔神の召喚には手を染めなかったとは聞いていたが、まさか異なる方法で魔神を捕らえようとしていたとは。


「お嬢さん、この男のしていたことは、魔法陣で魔神を召喚するよりも危険なことだったんだよ。なにしろ、契約をせずに檻に捕らえた魔神を支配しようとしていたんだからね」


 目を輝かせて聞き入っているメルローズに気づいたタラムスが、やんわりと忠告した。


「正式に契約を結んだ魔神は、契約者の望みを損なうことはできない。カイロスとあなたがどのような契約を結んだかは知らないけれど、彼があなたを傷つけることはないし、望みを叶えるまではあなたをすべてのものから守る。もし僕があなたを害しようとすれば、あらゆる手段を使って僕を滅しようとするだろうね。さきほどのように」


 カイロスの前に立つシトラーに視線を向け、タラムスは楽しそうに相好を崩した。

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