第二章 6

「オリヴィエ、あなたは魔神が契約に応じる際に代償として魂を食べることを知っていましたか?」

「いいや。そもそも、召喚に応じた魔神がなにか代償として求めるなど、エルファ家の古文書には残っていない。魔神の召喚に成功した魔術師について記された文献そのものがほとんどないのだよ。まして、魔神と契約に成功した者がどうなるかなど、記録されていないのが実情だ。なにしろ、あれはエルファ家の秘技だからな」

「……そうですか」


 エルファ家の生き字引であるオリヴィエでもわからないことがあることを、メルローズは残念に思った。


「エルファの魔術師連中は、どいつもこいつも秘密主義ばかりだよ。同じ一族同士だというのに、お互いの研究についてはとことん隠したがる。しかも、無茶を平気でやりたがるものだから、実験に失敗しては無駄死にしていく連中が多い。エルファ家の直系は、血を次代に受け継がせるためにも、当主となるには子供をもうけなければならないという決まりがある。メルローズ、お前さんが生まれる頃には、エルファ家の直系はクラメンスを除いて誰も残っていなかったから必然的に彼が当主となったが、儂の師匠などは当主になるため、若かりし頃は研究よりも先に子供を作ることを求められたそうだ。お前さんの祖父もそうだったがね」

「そんなに、一族は魔術の研究の途中で死んでいったんですか」

「儂も詳細な数までは知らないが、魔神や精霊の召喚に失敗したか、召喚したものの契約に持ち込めなかったためか、とにかく研究の最中に酷い姿になって死んだ者は多かったようだ。儂のように、召喚術よりも文献の解読に身を投じた者は長生きできるが、な」


 自嘲めいた笑みを浮かべ、オリヴィエは告げる。


「その我が家に伝わっていたという文献の一部が、父の研究であった魔法陣による魔神や精霊の召喚だったんですよね。他にも、古き神々に関する研究書が父の実家にはたくさんあったって聞いたことがあります」

「エルファの本家の屋敷は、もうすでにない。一族が長年にわたって研究、蒐集してきた文献や古文書も、教会の鏖殺師や騎士団によってすべて破棄された。連中はここ五十年ほどの間に力をつけ始め、古き神々を抹殺し、自分たちが崇める神のみしか認めない強硬姿勢を取るようになったのだ。まったく、神だって一柱だけではこの地上の大勢の人間の相手をしきれないだろうに。彼らは、唯一神は万能であり、地上すべての人間を救うことが可能だとほざきおる。神が多くいてなにが悪いというのだ。なんだって数が多い方が便利に決まっているじゃないか」


 忌ま忌ましげにオリヴィエは吐き捨てた後、しばらく気を取り直すように口を閉じた。


「エルファ家には、万象の書に関する文献もあったと訊いたことがあります。わたしは万象の書については名前を耳にしたことがあるていどなのですが、森羅万象、古き神々や精霊や地上のすべての生命など、この世界についてのありとあらゆることが記された書物だとか」

「儂も似たようなていどしか知らないが、万象の書は、世界の始まりから終焉、神々や精霊、人間、地上、天上、地下といったこの世のあらゆる事象について記した書物だと言われている」

「それは、魔神との契約や、契約を無効にする方法についても書かれていますか?」


 オリヴィエの腕を掴み、勢い込んでメルローズは訊ねた。


「万象の書に記されていないことはなにひとつとしてないという話だ。もちろん、魔神との契約を無効にする方法も書かれているのだろうが……で、なにをするつもりだね?」

「もちろん、カイロスとの契約を無効にするんです。それで父の魂を返して貰えるとは思えませんが、せめてアルジャナンだけでも魔神から解放して、助けたいんです」

「せっかくクラメンスが魔神の召喚に成功したというのに、それを無に帰すつもりかね?」


 長年魔術を研究してきたオリヴィエは、理解しがたい、といった顔でメルローズを睨んだ。彼にとってクラメンスの死は不幸な出来事ではあるが、魔神召喚と契約成立という代償としては妥当であると考えていることは、誰の目にも明らかだった。


「だって、このカイロスが取り憑いている限り、鏖殺師はずっと魔神を倒すためにアルジャナンごと殺そうと襲ってくるんですよ。さっきはかろうじて逃げることができたけれど、また襲ってくるに決まっています。カイロスを追い掛けてくるのはひとりの鏖殺師ではなく、教会という組織なんです。ひとりを撃退したって、次が来ます」


 鏖殺師はイアサントだけではないはずだ。

 もし彼を縛り上げてこの洞窟まで連れてきたとしても、彼が戻らなければ教会は新たな鏖殺師を派遣し、カイロスを抹殺するよう命じるだけだろう。


「いまでは教会の手の届かない場所なんてないんです。この島にも教会はあります。ここの司教は比較的理解がある方でしたから、わたしたちのような信徒でない者にも寛容でしたけど、鏖殺師によれば本土の教会ではすでに預言があったそうです」

「なるほど。神託が下ったか。それは厄介だ」


 顎髭をしごきながら、オリヴィエは眉間に皺を寄せた。


「わたしはこの世のどこかにあるという万象の書を探し出して、カイロスとの契約を無効にしたいんです。もしカイロスがこの地上からいなくなれば、教会だってアルジャナンを殺す大義名分がなくなります」

「そう簡単に物事が収まるかどうかはわからないが……肝心の魔神殿はどのようにお考えか?」


 オリヴィエはカイロスに視線を向け、鋭い口調で訊ねた。


「俺か? 俺はどちらでも良い。契約はすでに結ばれたが、俺が契約者の望みを叶える前にこの娘が無効にするというのであれば、やってみれば良い。もっとも、俺は無能な魔神ではないから、この娘が契約を無効にする方法を見つけ出す前に、契約者の望みを完璧な形で叶えてしまっているだろうが、な」


 飄々とカイロスが答えると、ほう、とオリヴィエは感心したような声を上げた。


「オリヴィエ。どうかお願いですから、万象の書について、知っていることをすべて教えて下さい。どこに行けば万象の書を読むことができるのですか? 万象の書とはどのような物なのですか? この世界のどこかに、万象の書だけを収納した広大な書庫があるのですか」

「まさか。万象の書は明文化されておらんよ」


 メルローズが腕を掴む力を強めたため、オリヴィエは苦笑いを浮かべた。


「この世のありとあらゆる事象を記した万象の書は、文字がこの地上に存在していない時代から存在していたのだ。それこそ、人間が存在していない、神世の昔から、だ」

「そんな遙か以前から……」

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