第二章 5

 エルファ家の屋敷があるすぐそばの崖の一部が、下の海岸まで降りられるように整備されていた。元は自然にできた崖が更に崩れた部分を、少し手を加えたもので、急斜面になってはいるが、人が通れる状態にしている。

 満潮時も浸かることがない海岸ではあるが、土砂降りの中、崖とほとんど代わらない坂道を通るのは、かなり危険だった。足下が滑りやすくなっており、また雨水が川のように上から流れ落ちてくる。

 メルローズも一度しか通ったことがない道だったが、記憶を頼りに、視界と足下が悪い中、慎重に歩く。なんとか無事、下の海岸まで辿り着くと、大小さまざまな石が転がる海岸を進む。大きな岩と岩の隙間に辿り着くと、そこからは手探りで隧道ずいどうの中を歩き出した。ただでさえ外は雨で薄暗いというのに、ランプもなにも持たないメルローズたちは、さらに暗い場所へと向かった。

 メルローズがなにも喋らず、ただ手を繋いだまま歩くので、カイロスも黙って同じ歩調でついてきた。

 視界は漆黒で塗りつぶされ、ときおり上から水の雫が地面に落ちる音と、二人の足音だけが響く。雨で全身が濡れているため、隧道の冷気が二人の身体を冷やす。髪や服の裾から水を滴らせていると、身体がいつになく重く感じる。それでもメルローズは、立ち止まって濡れた髪や服の水気を絞ることはせず、足を動かした。

 暗闇の中でも意識を研ぎ澄ませば、精霊たちの囁きが聞こえる。目に見ることはできないが、声にならない声で隧道に宿る精霊たちが目的地へと誘導してくれた。

 どのくらい進んだのか、右手を壁に当てて歩き続けたメルローズは、目の前が仄かに明るくなるのを感じた。

 ほっとため息をつき、また黙々と進む。

 なんどか狭い隧道を曲がりくねったところで、ようやく開けた場所に出た。といっても、エルファ家の台所くらいの広さしかない。

 中央に置かれた腐りかけの木組みの机の上に、蝋燭が一本だけ燭台に載せられ、小さな炎がちろちろと揺れていた。

 その横に、簡素な丸椅子に腰を下ろし、足首まで隠れる灰色のかんとうのような服を着た老人が座っている。皺だらけの頬がけた顔、床まで着きそうな顎髭と腰に達する頭髪は総白髪だ。メルローズとカイロスに足音にさきほどから気づいていたのか、顔は隧道の方向に向いていたが、長い眉毛に隠れた皺だらけの瞼は開いているのかどうかさえわからない。


「――お嬢かね?」


 嗄れた声が洞窟内に響いた。


「お久しぶりです。オリヴィエ」


 メルローズは遠慮せずに、その老人の前まで進んだ。


「一緒にいるのは、例の弟子か? それにしては、いやに刺々しい空気だな」


 気配を窺っていた老人は、わずかに顔を顰める。


「彼はアルジャナンの姿をしていますが、違います。父が召喚した魔神カイロスです。カイロス、彼はオリヴィエ・ペルティエ。曾祖父の弟子だった魔術師よ」


 メルローズがそれぞれに紹介すると、オリヴィエは皺だらけの口元を歪めた。


「ほう。ついにあの男が魔神の召喚に成功したか。どうりで地上がやたらと騒がしかったのだな」


 くぐもった声でオリヴィエは低い笑い声をたてる。


「カイロスを弟子に取り憑かせたか。契約は無事結ばれたということだな。儂が知る限り、魔神が契約に応じたのは122年ぶりだ」


 枯れた手をよろよろと動かし、オリヴィエは二人を手招きした。


「オリヴィエはまもなく百歳なのだけれど、もうほとんど目が見えていないの。足腰も弱ってしまっているから、滅多にこの洞窟からは出てこないわ。本土で教会の迫害に遭って逃げてきて以来五十年近く、ここに隠れ住んで研究を続けているの」

「食べ物などはどうしているんだ?」


 辺りを見回しても、食器類はない。コップだけは洞窟の隅に置かれており、天井から垂れてくる雫がそこに溜まっていた。

 湿気と黴の臭いが辺りに漂っている。


「以前は、海岸まで行って魚を釣っていたが、この歳になるともう胃が食べ物も受け付けなくなってな。いまじゃ、水だけで生き存えておる」


 聴覚は衰えていないらしく、カイロスがメルローズに囁いた質問をしっかりと聞き付け、オリヴィエは膝を手でさすりながら楽しげに答えた。

 普段は蝋燭など使わない生活を送っているらしい。蝋が垂れて固まった燭台の状態から判断すると、二人の足音を聞き付けて火を点けてくれたようだ。

 薄暗い洞窟内は、ひとりでも狭いだろうに、三人ですでにいっぱいだ。

 この島に引っ越してきてすぐ、父親に連れられてここへオリヴィエに挨拶に来たことがあるのだ、とメルローズはカイロスに説明した。

 エルファ家の血を継ぐ者ではないが、彼女の曾祖父に師事していたことがある魔術師は、すでにほとんど血筋が絶えてしまった一族にとっては、貴重な人材だった。


「早速ですけど、オリヴィエ。父が魔神の召喚に成功したものだから、大変なことになってしまったんです」

「だろうな」


 予測済みだと言わんばかりにオリヴィエは頷いた。


「父はこの魔神に魂を食べられてしまいましたし、父の弟子のアルジャナンは魔神に取り憑かれました。その上、本土からは騎士で祓魔師だと名乗る男が、こんな物騒な剣を持って現れて、悪魔を斬り殺すと言って襲ってきたんです」


 手にしていた聖賢の剣を鞘ごと差し出し、メルローズは訴えた。


「おや。これは、聖賢せいけんの剣だね。ということは、鏖殺師おうさつしか」


 剣を受け取り皺だらけの手で柄や鞘の表面を撫でたオリヴィエが、即座に言い当てた。


「ご存じなんですか?」

「そりゃそうさ。儂だって、かつてはこの剣の持ち主に命を狙われたことがあったからな。魔神についてなにひとつ正しく理解していないにもかかわらず、異端だと声高に叫んでエルファ家を目の敵にしている、ひどく物騒な連中さ」


 忌ま忌ましげにオリヴィエは吐き捨てると、剣をメルローズに戻した。

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