第二章 4

「もう目を開けていいぞ」


 両腕を掴まれ、耳から無理矢理手を外されると同時に、カイロスの声が遠くで妙に反響して聞こえた。

 おそるおそる瞼を開けると、視界がちかちかと星が瞬いている。

 目の前には、アルジャナンそっくりの心配そうにメルローズを覗き込んでいるカイロスの顔があった。

 息を吸うと、焦げた臭いが鼻孔から一気に肺へ入れてしまった。

 地面に視線を向けると、土が真っ黒に炭化しており、あちらこちらから白い煙が立ち上っている。

 焦土以外のなにものでもない。

 石造りの家は、かろうじて石壁や瓦が崩れずに残っている部分もあるが、窓枠はなくなり、窓ガラスも完全に消えている。

 実験小屋は消え失せていた。


「……お父様は?」


 屋敷跡を見回しても、父を安置していた場所はなにも残っていない。

 カイロスは黙ったままメルローズから視線をそらした。


「酷い……なんてこと……」


 一瞬にして燃え尽きたのか、隣の家まで続く小道の両脇に植えられていた柘植つげの木は見当たらず、雑草すらなくなっている。七竈ななかまどの木も根こそぎ姿を消している。隣家の納屋にも火は燃え移っており、遠目にも炎が上がっているのが見える。

 ぽつり、と頬に水滴が落ちてきた。

 顔を上げれば、雨雲が空いっぱいに広がり、雨粒を降らせてきている。

 目を見開いて空を睨んでいると、小降りだった雨は、すぐに土砂降りとなった。

 周囲には紗がかかったように手が届く範囲以上は見えなくなる。

 イアサントはどうなってしまったのか、彼女の視界から姿を消してしまっていた。

 激しい雨脚に耐えかねてびしょ濡れになりつつメルローズが顔をしかめると、面倒くさそうにカイロスの腕が伸びてきて引き寄せられた。


「人間の器で不便な点は、足で歩かなければならないことと、風邪をひくことだな」

「……魔神でも風邪をひくの?」

「俺が憑いたからって、肉体は普通に人間のままだ。寒さ暑さだって感じる」


 辺りを警戒しながら、カイロスは答える。

 そのとき、地面に打ち付ける雨音に混じってすぐそばから水たまりを蹴る音が響いた。


「契約なんてものに縛られて、俺の偉大さが半減してしまうのは残念だが、地上で暴れまくるわけにもいかないからな」


 尊大な口ぶりで肩をそびやかすと、カイロスは靴のつま先で地面を二度叩いた。


「シトラー、出てこい」


 ぴしゃんと足下で水が跳ねる。

 同時に、滝のような雨の隙間から、濡れた剣の切っ先が現れた。

 そのまま狙いを定めたように剣は二人に向かって突き進んでくる。

 身動きが取れずにいたメルローズは、カイロスにしがみついた瞬間、背筋が寒くなるような気配を足下に感じた。首を動かして視線を背後に向けると、足下の黒い土が生き物のようにむくむくと盛り上がるところだった。

 間もなく、土は四つ足の生き物に姿を変えた。メルローズが両手を広げたくらいの体長の狼といったところか。漆黒の毛の間から、金色の瞳だけが輝いて光っている。大きな口を開き、白い牙を剥きだして軽く唸った瞬間、地面を蹴ってその狼は真横から向かってきた剣に噛み付いた。

 剣先は大きく横に逸れた。


「うわぁっ!」


 雨の帳ではっきりとは様子を窺えなかったが、イアサントの悲鳴が響く。

 そのまま剣ごとイアサントを地面に倒した狼は、素早く剣から牙を離すと、無様に尻餅をついているイアサントの胸を右の前足で、更に剣を持った手をもう片方の前足で押さえつけた。牙を剥き、激しく唸って相手を威嚇する。


「よくやった、シトラー」


 飼い犬を誉めるような口調で、カイロスが狼に声を掛ける。

 狼に睨まれたイアサントは、なんとかこの足を振り払おうともがいたが、痩身の彼では大柄な狼を退けることはできなかった。

 狼の方は、視線をイアサントからは外さず、毛を逆立てて唸り続けている。


「噛み付かないのか? 護符があるからなのか、こいつの身体から聖職者独特の厭な臭いがするのか?」


 わずかに目をすがめてカイロスが狼に訊ねる。


「臭い?」


 雨の臭いしかわからないメルローズは首を傾げた。

 シトラーと呼ばれる狼は、カイロスの問いに答えるように、グルルと唸ると同時に、太い尻尾を数度振った。


「聖職者は乳香を香炉で焚き、それを身や衣類に染みこませている。鼻が利く獣にはこのかすかな臭いでさえ嫌がるものだ。もしくは、服の下に護符を忍ばせているんだろう。護符は目に見えなくても、気配だけで相手を警戒させることができる。祓魔師は、自らが悪魔に取り憑かれないよう、防御も怠らない」

「あなたはまったく気にしていないようだけど」


 メルローズの指摘に、カイロスは事も無げに答える。


「人間の身体では感じない類のものだ。それに俺はまだこの身体に馴染んでいないせいか、感覚が鈍っているようだから、そのせいもあるだろう」

「……馴染む前にアルジャナンから離れてくれると有り難いのだけど」

「そうはいかない。契約を果たすまでは、俺はこの身体に憑いて地上に留まり続ける」


 エルファ家の繁栄など、どうでもいいから父とアルジャナンを返して欲しい、とメルローズが考えたときだった。


「悪魔よ! 去れ!」


 イアサントが叫び、押さえつけられていない方の手にどこからか取り出した銀の短剣を握ってシトラーに突き刺す。

 短剣はシトラーの眉間にずぶりと吸い込まれたかと思うと、狼は一瞬で泥の塊と化し、そのまま崩れて地面に落ちた。

 聖賢せいけんの剣とイアサントの腕の上にもシトラーを形作っていた泥が零れ落ち、彼の剣と袖を汚す。


「やれやれ。聖賢の剣以外にも物騒な物を持っているんだな」


 目を細め、イアサントを睨んだカイロスは忌ま忌ましげに呟く。


「まぁ、いい」


 一歩踏み出したカイロスは、イアサントに近づくと手を伸ばし、胸ぐらを掴んだ。


「しばらくおとなしくしていろ」


 低い声で引導を渡すと同時に、もう片方の手を握って拳にすると、振り上げる。カイロスが強い力でイアサントの腹部を殴ると、相手は水たまりの中に飛び、そのまま力なく突っ伏した。

 しばらくメルローズはカイロスとともに距離を置いたまま様子を窺っていたが、意識を失ったのか動く気配がない。


「意外とこっちの方が効くものだな」


 自分の拳をまじまじと見つめ、カイロスは微妙な表情を浮かべた。


「俺の魔神としての感覚が鈍っている分、腕力が使えるのは助かる」


 聖職者だからなのか、イアサントがそうなのかはわからないが、彼は剣や護符などに頼りすぎているのだろう。身体の鍛え方は足りないようだ。まさか彼も、悪魔に素手で殴られて失神する羽目になるとは想像だにしなかったはずだ。


「さて、これからどうするか、だ」


 まだ土砂降りが続く中、カイロスが困惑した様子で辺りを見回す。


「ひとまず、ここを離れましょう。雨が上がったら、村の人達がなにが起きたのかと様子を見に来るに違いないわ。この惨状はさすがにわたしも説明できないし、言い訳をするよりもこの場にいない方がいいと思うの」

「あの男はどうする?」


 顎でイアサントを指し、カイロスが訊ねる。


「縛って連れて行くか?」

「放っておきましょう。村の人に教会へ運び込んでもらえばいいんじゃないかしら。でも、これはいただいておいた方がよさそうね」


 足下に落ちていた短剣と聖賢の剣を拾うと、ついでにイアサントの腰の鞘も奪う。


「教会に駆け込まれたら、この男は騎士団に連絡を取って、ここに騎士たちが集団で押し寄せてくるぞ?」

「ここは世界の果ての島だから、教会から鳩を飛ばして島の外に連絡するにしても、片道一日近くかかるの。この辺りは群島になっているのだけど、小さな島が点在しているせいで海流も複雑だし荒いのよ。騎士団がもし船に乗ってこの島に攻め込んでくることになったとしても、本土から船で三日はかかるわ」


 僻地である分、地理的には有利だ。

 剣を鞘に収めると、メルローズはカイロスの手を取った。

 彼の腕に絡みつくように貼り付いている魔法陣の模様は、相変わらず雨に濡れても落ちることがない。


「それより、今後のことについて相談に乗ってくれそうな人がいるから、その人の隠れ家にいきましょう」

「誰だ、それは」

「着いたら紹介するわ」


 住み慣れた家がほぼすべてが燃え尽きた今となっては、一刻も早くこの場を離れたかった。

 メルローズは振り返らず、さっさと歩き出した。

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