第二章 1

 銀に輝く切っ先がメルローズの目の前を横切った。

 空を切る音とともに前髪が数本宙に浮くまで、彼女はなにがおきているのか正しく理解していなかった。

 強い力で背後に引っ張られている、と気づいたときには、カイロスの胸の中に収まっていた。


「誰だ、お前」


 腹の底から響くような声で、カイロスが問い質す。

 メルローズが振り仰ぐと、頭上に厳しい表情を浮かべたカイロスの顔があった。


「教会の人、ではないわよね」


 目の前の青年に視線を戻し、メルローズは首を傾げた。

 この男の手に握られている細身の剣によって、自分が斬られそうになったという実感がいまだ湧かなかった。

 闇の色に似た漆黒の長衣は、教会の司祭が着ている礼服に似ているが、襟元、袖口、裾に金糸で縁取りはついてはいなかったはずだ。襟元と袖口の白いレースは銀糸が混ざっているのかかすかな朝日を浴びてもきらきらと輝いている。腰帯は艶のある天鵞絨ビロードの生地に金と銀の絹糸をり合わせた豪奢な模様の刺繍が施されていた。その脇に不釣り合いなくらい無骨な剣の鞘があった。黒い漆塗りの鞘は、聖句が銀で刻まれている。

 年の頃は二十代前半といったところか。アルジャナンとそう代わらない年齢に見える。

 透き通るように白い肌は青白く、身体の線は極めて細い。頬や顎の肉が少ないせいか、碧い眼球が動くとやたら神経質に見える。背丈はメルローズよりも頭ひとつ分高いくらいだ。長い銀髪を三つ編みにして胸元に垂らしているので、遠目には女性と見間違えそうだが、近づくと険のある目つきや薄い唇、鼻筋から、男だと判別できる。

 この島の住人ではないことは、ひと目でわかった。

 いくら近所付き合いが乏しいエルファ家でも、隣近所と断絶しているわけではない。特に二、三日に一度は近くの市場まで買い物に出掛けるメルローズは、それなりに近所の顔見知りも多く、村内の噂も耳にしている。

 教会に新しい司教や助祭が赴任してきた際は、教会に通っていないメルローズにも教えてくれるはずだ。

 こんな寒々とした美貌を持つ司教が教会に現れようものなら、普段はなかなか招待してもエルファ家を訪れない近所の少女たちも、自ら積極的に知らせてくれるだろうに。


「私は悪魔を狩る騎士であり祓魔師ふつまし、イアサント・ブーランジェだ」


 凛とした声で、青年は名乗りを上げる。

 祓魔師が『はらう』ではなく『狩る』と表現したことに、メルローズは疑問を抱いた。


「今日、この場に悪魔が現れると預言があったので念のために来てみれば、まさか本当に悪魔が出現しているとは」


 イアサントは、酷薄な光をたたえた目を細め、口元をわずかに歪めた。


「祓魔師?」

「違う。あれは、おうさつだ」


 ぼそっとカイロスがメルローズの耳元で囁いた。


「鏖殺師?」


 聞き慣れない単語に、メルローズは怪訝な表情を浮かべて聞き返す。


「奴は手に銀の剣を持っているだろう? あれは、聖賢せいけんつるぎと呼ばれる代物で、古き神々や精霊を容赦なく斬り捨てる剣だ。騎士だの祓魔師だのと名乗ってはいるが、自分たちが崇める唯一神の代理人であるとして神の名の下に、邪魔な異教の神とその信徒から天主教の信徒を救うとのたまって魔神や異教徒を殺して回っている殺人者だ。いわば、教会公認の刺客だな」


 吐き捨てるようにカイロスが説明すると、小声でもしっかり相手の耳には届いたらしく、イアサントは目の端を吊り上げた。


「悪魔が、人をたぶらかしておきながらなにをほざくか」

「悪魔ではない。せめて、地上の人間らしく魔神と呼べ」


 イアサントに対し、カイロスは冷ややかに侮蔑の視線を向ける。


「きさまのような魔物が神を名乗るな」


 剣先をカイロスに向けたイアサントは、カイロスとメルローズを交互に眺めた。


「まずいな。あの剣はさすがに厄介だ。かつて、数多あまたの神々があれによって惨殺された」


 ぼそりとカイロスは呟く。


「まぁ、あのていどの若造であれば、剣を振り回したところで俺の敵ではないだろうが、剣に触れてしまうと俺でも無傷ではすまない」


 敵、と聞いて、メルローズは顔を顰めた。

 祓魔師はクラメンスたち魔術師にとっても敵だ。しかも騎士に叙任されているとなれば、かなり高位の聖職者となる。公開異端審問なしの、彼自身の裁量のみで異端者を裁くことができる資格を持っていることになる。

 天主教が一大勢力として国王にも匹敵する権力を持つ国によっては、彼のような者によって、過去大勢の魔術師たちが殺害されたという記録もある。


「仕方ない。墓堀りは後だ」


 シャベルを放り出すとカイロスは宣言する。

 メルローズが振り仰ぐと、カイロスの顔には面倒だ、とはっきり書かれていた。

 どうするのかとメルローズが興味津々で様子を覗っていると、カイロスは空いた手を突き出し、イアサントに向かって人差し指を突きつけた。


「奴を排除しろ」


 凜とした口調で空中に向かって号令を出すと、人差し指を軽く上に振った。

 腕の紋様が白く輝き、同時にその指先から暴風が沸き起こると、イアサントに向かって勢い良く風が波となって押し寄せる。風の精霊たちが、カイロスに従ったのだ。

 轟音とともに土埃が舞い上がり、もみの木の枝が激しく揺れる。山査子さんざしの垣根が根っこごと浮き上がり、風と一緒に木々もイアサントを襲う。


「ちょっと! なにするのよ! やめて! うちの庭を滅茶苦茶にする気!?」


 山査子の垣根は半分吹っ飛び、周辺の芝生もことごとくなくなった。れんを並べて作っていた花壇も破壊され、一瞬にして辺りは荒野と化す。

 カイロスが見せた魔力よりも、庭が崩壊したことにメルローズは悲鳴を上げた。

 同時に、彼はまぎれもなくアルジャナンではなくカイロスであると悟った。アルジャナンの魔力は本当に微々たるもので、彼は満足にスプーンのひとつも浮かべることができなかったのだ。なぜ魔術師を志し、クラメンスの弟子になったのかも謎なくらい、アルジャナンには魔術の素養が乏しかった。

 それが、記憶喪失になったくらいで、これほど爆発的な力を発揮できるはずがない。そもそも、鏖殺師などというメルローズも知らない単語をアルジャナンが知っているはずがない。

 アルジャナンは本当に魔神の器とされたのであって、いま自分のそばにいる男は魔神カイロスの仮の姿であると彼女はまざまざと思い知らされた。


「お父様の魔法並みにタチが悪いじゃないの!」


 クラメンスがかつて魔法で庭掃除をすると言い出したときのころを思い出し、メルローズは絶叫した。過去に一度、庭を焼け野原にされて以降、今後庭では絶対に魔術は使わないとクラメンスとアルジャナンに約束させ誓文まで書かせたというのに。


「少し黙ってろ」


 叫ぶメルローズの口を、彼女を掴んでいた方の手で塞ぐ。

 同時に、山査子の枝を剣で切り裂き、そのまま剣を構え直したイアサントが厳しい顔つきで駆け込んできた。

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