第一章 8
ふと気づくと、周囲は白んでいた。
泣き疲れたメルローズは、のろのろと顔を上げカイロスから離れると、無気力な表情のまま、床に座り込んだ。
東の方角に視線を向けると、朝日が昇り始めている。
どれほど泣き喚こうが悲しもうが、時間だけは確実に過ぎていた。
ぼんやりと小屋の中を見回し、父親の遺体で視点が定まった。
床の上に身体が投げ出されたままのクラメンスには、外傷らしきものはない。
のろのろと床を這うようにして父親に近づいたメルローズは、手を彼の首筋に伸ばした。すでに体は冷たくなりつつあった。
あぁ本当に死んでしまったのか、とメルローズは認めるしかなかった。納得したわけではないが、事実は事実として目の前に横たわっている。小屋の中はやはり荒れたままだったし、床に描かれた魔法陣は消えたままだ。
「ねぇ……お父様を屋敷まで運ぶのを手伝ってくれない? いつまでもこんな場所に寝かせておくわけにはいかないわ」
振り返り、アルジャナンの姿をしたカイロスに声を掛ける。
父の魂を喰った張本人に頼むのは厭だったが、この場には他に人がいないのだ。メルローズひとりでは、せいぜい父親を屋敷まで引きずっていくことしかできない。すでに身体の中には魂がないとはいえ、これ以上肉体を傷つけるような真似はしたくなかった。
「あぁ」
素っ気ない口調で応じると、カイロスはゆっくりとした動作で立ち上がった。両腕にはくっきりと魔法陣の模様が貼り付いている。
その瞬間、メルローズはそれがアルジャナンではないことをはっきりと悟った。
身体はアルジャナンだが、雰囲気がまるで違う。春の穏やかな陽射しのような微笑みを常にたたえているアルジャナンとは異なり、同じ容姿だというのにカイロスは冬の海のような獰猛さが感じられる。
本当に父は魔神カイロスの召喚に成功し、そしてアルジャナンはまぎれもなく魔神によって身体を奪われたのだ。
「どこに運べばいい?」
クラメンスの身体を軽々と抱きかかえると、カイロスは訊ねた。
「こっちよ」
ほぼ壊れかけている小屋の扉を開け、メルローズはカイロスを屋敷へと案内した。
かつてこの島の領主が酔狂で別荘として建てたという家は、海からの潮風や激しい雨にも耐えうるようにと、石造りになっている。島の中心である村からは遠く離れた辺鄙な場所であるため、クラメンスが破格の値段で購入することができたものだ。
家そのものはそう広くはないが、三人で暮らす分には充分な部屋数を備えていた。各自の部屋とクラメンスの書斎と図書室、それに離れの実験小屋もあり、まさしくクラメンスの隠遁生活にはうってつけだった。
すぐそばに崖があるため、ほぼ毎日波の音と海鳥の鳴き声が聞こえてくるが、慣れてしまえばどうということはない。
かなり風変わりな学者、と島の住人から敬遠されているため、滅多に訪ねてくる者もいないが、メルローズ自身は近所付き合いをおろそかにはしなかった。
そうやってゆっくりと築いてきたこの島での生活が、ほんの一瞬で破綻したのだ。
実験小屋から一番近い屋敷の勝手口を通り、メルローズはクラメンスの寝室へとカイロスを案内した。
続き部屋である書斎との間にある扉は開け放たれ、床やテーブル、椅子などところ構わず本や紙の束が置かれている。これはクラメンスの部屋の常の状態だ。
カイロスが歩きやすいよう、邪魔なこれらを退けると、メルローズはベッドを手早く整え、そこへクラメンスを仰向けに寝かせてもらった。
クラメンスの顔からは、死亡した直後に見た苦悶の表情は消え、いまは眠っているように安らかな表情をしている。
「ありがとう」
ひとまずメルローズはカイロスに世話になった礼を言ったが、これからどうすれば良いのか、皆目見当がつかなかった。
父が死んだのだから、母を亡くしたときのように葬儀を執り行って埋葬しなければならないことはわかっていた。
ただ、エルファ家はこの島の教会の信徒ではない。
クラメンスは魔術師であることを自身の誇りとしていたため、魔術を否定する教会には帰属しなかった。エルファ家はいわば魔術を信仰する家系であり、教会とは相容れない存在だった。
教会は信仰を持たない者には神を崇めることを推奨し、信者となれば庇護するが、教会が崇拝するただ一柱である神以外を信仰する者に対しては異端として迫害した。
クラメンス・エルファが信徒でないことは、教会も知っていた。ただ、フロリオ島は古い土着信仰がいまだ色濃く残る島だ。だからこそ、クラメンスたちは本土の教会の意志とは関係なく、寛容な島の住人たちによって受け入れられた。
メルローズの母親の葬儀は、当時住んでいた本土の町の教会で執り行われた。
クラメンスは教会で祀られている神を信仰していないからといって、教会の建物そのものに入ることを拒む性格ではなかったし、天主教の信徒である妻の信仰を否定していたわけでもない。そのため、メルローズの母の葬儀は教会において滞りなく行われ、彼女は生家の一族と同じ墓地に埋葬されたのだ。
「お葬式とお墓と、あと、まずは棺をなんとか手配しないと」
母親が死んだときのように、世話を焼いてくれる親戚はここにはいない。すべてはメルローズが自分でしなければならないのだ。
額に手を当て、母の葬儀の際を思い返しつつ、メルローズはいまなにをすべきか、頭の中でせわしなく考える。
父親の寝室を出ると、真っ直ぐに台所へ向かった。
魔術のかけらも存在しない台所は、メルローズにとっての聖域だ。ここには学術書も実験道具も持ち込んではならないことがエルファ家の鉄則となっていた。
「村長さんにお願いしたら葬儀屋を紹介してくれるのかしら。村の墓地って、埋葬料は幾らかかるのかしら」
腕組みをして狭い台所をぐるぐると歩き回る。
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