第一章 2

 これまでクラレンスの魔神召喚は一度も成功していない。

 古き神々と呼ばれる魔神は、いまでは世の中からほとんど忘れ去られた存在だ。

 クラレンスのような魔術を研究する者たちでさえ、魔神の存在を信じる者は減っている。

 魔神召喚術を研究しているクラレンスは、学会の中でも異端中の異端とされていた。また近頃は、各国で土着の古い神や精霊を信仰する者を迫害する傾向にある。近年にわかに信者が増えた聖主教せいしゅきょうの影響だ。

 クラレンスは研究を続けるため、弟子のアルジャナンと十六歳の娘メルローズを連れて、聖主教の権威が届かない最果てにあるフロリオ島に本土の首都から移り住む羽目になった。

 外から邪魔が入らない環境で研究に没頭できるクラレンスは、僻地暮らしに満足しているようだが、現在エルファ家では現金収入がほとんどない。

 メルローズが畑で野菜を育てたり庭で山羊や鶏を飼ったりして、なんとか日々の食糧を確保していた。また、アルジャナンは島の学校で教師をしている。一方、クラレンスは首都では古文書の解読の仕事をしていたが、フロリオ島では収入に繋がらない論文ばかりを書いている。

(明日には、今度こそ鶏小屋の修理を手伝ってもらわなくちゃ。狐に破られた金網を直さないことには鶏たちだっておちおち眠っていられないでしょうし、良い卵も産んでもらえなくなってしまうわ)

 明日以降の予定を考えてメルローズは気を紛らわせていた。

 亜麻色の長い癖のある髪を青いリボンを使ってうなじでひとつに結んでいるが、首筋には玉のような汗が浮かんでいる。蒸れるような暑さと塗料の臭気は、とにかく耐えがたいものだった。

(ひよこ豆もそろそろ蒔いておかなければならないし、あの辺りの草抜きと土起こしを明日中にやってしまいたいわね。林檎の木のせんていもしなくちゃ。ななかまどの実を摘んで砂糖煮を作るのはその後でもいいけれど。まずお父様には畑を耕していただくとして……)

 農作業の綿密な計画を頭の中で立てていたメルローズは、目の前の魔法陣がほのかに白く光り出したため、そちらに意識を向けた。

 どうやら、魔法陣が動き始めたようだ。

 エルファ家は五百年近い歴史を持つ魔術師の家系だ。

 古代魔術と呼ばれる系統で、魔神や精霊を召喚して隷属れいぞくさせ使役することを得意としていた。

 もっとも、魔術師の末裔であるメルローズには魔力は一切ない。また、魔神や精霊を自分の目で見たことはない。精霊の気配や声ならばなんとなく感じられるが、自分の意志でなにかができるわけではない。クラレンス自身は魔力を持っているが、その彼も幾度か精霊をぼんやり見たていどだ。

 科学が発達し、古い神々や精霊が信仰されなくなった現代、魔術はすたれ始めている。魔神や精霊は人々の記憶から薄れていき、その存在は消滅しつつある。

 魔術師の末裔として、クラレンスは魔術を研究し、魔神や精霊がこの世界で生き残る方法を探していた。メルローズには魔力がないため、弟子のアルジャナンに自分の後を託そうとしている。もっともエルファ家の血を引いていない彼が、どこまで研究を継承できるかは不透明だ。

 これまで幾度か、クラレンスはメルローズに「アルジャナンと結婚しないか」と勧めてきた。なんとかして魔術師エルファ家の血を残そうとしての提案だったが、メルローズはその度に父の提案を却下していた。

 アルジャナンのことは家族として好きだが、この先も父の魔術研究助手として一生を費やすなど真っ平御免だった。父が生活に困らないだけの資産家で道楽として魔術を研究しているならともかく、エルファ家の家計は火の車だ。

 それでもメルローズは父を敬愛していたし、父の弟子になったばかりに辛酸をなめる羽目になったアルジャナンにも感謝していた。

 彼女自身は、いずれ父の死とともにエルファ家が魔術師の家系であった歴史も消えるだろうと覚悟していた。彼女は父の研究を継ぐ気などさらさらなかったし、アルジャナンも魔術師というよりは魔術の研究者だ。彼は古い魔術書を難なく読むことはできるが、エルファ家に伝わる魔術は使えない。

 魔神の召喚術に関しては、完全にクラレンスの代でしまいだ。

 古い神々だけでなく魔術も廃れる時代になったのだ、とメルローズは納得していた。

 ある魔術研究者は、聖主教によって古き神々がほふられた、と論文に書き綴り学会で発表した。その数日後に研究者は忽然と姿を消したが、実は聖主教のふつによって悪魔憑きと断罪され密かに誅戮ちゅうさつされたのだという噂がある。

 いまやこれらいくつもの事情が重なり、魔術の研究の継続は難しい風潮となっている。魔術学会でさえ、本土では聖主教に隠れて秘密裏に開催されていると聞く。

 魔神召喚や魔神崇拝は、聖主教からはもっとも邪悪な行為として扱われ、まれている。

 三人が暮らしているフロリオ島は、聖主教の目も届かない世界の果てのような場所だ。

 だからこそ、クラレンスは心置きなく研究が続けられている。

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