第一章 2

 これまで、一度としてクラレンスの魔神召喚は成功したことがない。

 古き神々と呼ばれる魔神は、いまでは世の中からほとんど忘れ去られた存在だ。

 クラレンスのような魔術を研究する者たちでさえ、魔神を信じる者は減っている。魔神召喚術を検証しているクラレンスは、学会の中でも異端中の異端とされていた。世間では近頃、土着の古い神や精霊を信仰する者を迫害する傾向にある。最近流行りの天主教てんしゅきょうのせいだ。

 おかげで、クラレンスは研究を続けるため、弟子のアルジャナンと十六歳になったばかりの娘メルローズを連れて、本土の首都から天主教の権威が届かない最果ての島の、更に辺境であるフロリオ島に一軒家を借りて移り住む羽目になった。

 外から邪魔が入らない環境で研究に没頭できるクラレンスにとっては、僻地暮らしも悪くはないようだが、メルローズにとってはかなり迷惑な話だ。なんども父とその弟子を見捨てて家を出ようかと考えたが、研究馬鹿である二人は、彼女がいなければ食事も満足に摂れないくらい生活能力に欠けている。彼女に見放されると、二人は十日と立たずに餓死するに違いない。なにしろ、過去にメルローズが風邪を引いて三日間寝込んでいたときは、ふたりともメルローズの看病どころか自分たちの食事の準備さえできず、メルローズ以上に痩せ細っていたのだ。戸棚にあるパンを出して食べるという行為さえ日常的にできないのだから、どうしようもない。

 しかたがないので、召喚に一度失敗するごとに、クラレンスとアルジャナンには罰として三日間は研究を中断し、畑仕事に精を出す約束をさせている。

 エルファ家は、クラレンスが稀に学会に送っている発表論文以外は現金収入がない。現在は自給自足が原則だ。生活能力に長けたメルローズによって、三人が暮らしていく分には困らないだけの食料が畑で栽培されていたが、それだってぎりぎりの状態だ。


(明日には、今度こそ鶏小屋の修理をしてもらわなくちゃ。狐に破られた金網を直さないことには、鶏たちだっておちおち眠っていられないでしょうし、良い卵も産んでもらえなくなってしまうわ)


 明日以降の三日間、いかに二人を効率よく働かせるかについて考え、メルローズは気を紛らわせていた。

 亜麻色の長い癖のある髪を青いリボンを使ってうなじでひとつに結んでいるが、首筋には玉のような汗が浮かんでいる。蒸れるような暑さと臭気には、この実験に幾度も立ち会っている彼女でさえ、耐えがたいものがあった。


(ひよこ豆もそろそろ蒔いておかなければならないし、あの辺りの草抜きと土起こしを明日中にやってしまいたいわね。リンゴの木のせんていもしなくちゃ。ななかまどの実を摘んでジャムを作るのはその後でもいいけれど。まずお父様には畑を耕していただくとして……)


 農作業の綿密な計画を頭の中で立てていたメルローズは、目の前の魔法陣がほのかに白く光り出したことに気づき、ようやくそちらに意識を向けた。

 どうやら、魔法陣が動き始めたらしい。

 エルファ家は五百年近い歴史を持つ魔術師の家系だ。

 古代魔術と呼ばれる系統で、魔神や精霊を召喚して隷属れいぞくさせ、使役することを得意としていた。

 もっとも、魔術師の末裔であるメルローズには魔力は一切ない。また、魔神や精霊も自分の目で見たことはない。精霊の気配や声ならばなんとなく感じることができるが、自分の意志でなにかができるわけではない。クラレンスの血にはわずかながら魔力が宿っているという話だが、その彼も幾度か精霊をぼんやりと見たていどだ。

 科学が発達し、一神教が世に幅を利かせるようになり、古い神々や精霊が信仰されなくなった現代、魔術などというものもすたれてきている。魔神や精霊は人々の記憶から薄れていき、その存在は徐々に消滅し始めていた。

 魔術師の末裔として、クラレンスは魔術を研究し、魔神や精霊がこの世界で生き残る方法を探していた。娘であるメルローズには魔術の素養がほとんどないため、弟子として迎え入れたアルジャナンに自分の後を託そうとしている。もっともエルファ家の血を継がない彼では、どこまで研究を継承することができるのかは不透明だ。

 これまで幾度か、クラレンスはメルローズに、アルジャナンと結婚してはどうかと勧めてきた。なんとかして、魔術師としてのエルファ家の血を残そうとしての提案だったが、メルローズはその度に父の提案を却下していた。

 アルジャナンのことは家族として好きだったが、この先も自分の一生が魔術の研究助手として費やす羽目になるかと想像しただけで身体が震え上がった。父が生活に困らないだけの資産家で道楽として魔術を研究しているならともかく、エルファ家の家計は火の車だ。

 それでもメルローズは父を敬愛していたし、父の弟子になったばかりに辛酸をなめる羽目になったアルジャナンにも感謝していた。

 彼女自身は、いずれ父の死とともにエルファ家が魔術師の家系であった歴史も消え去るだろうと覚悟していた。彼女は父の研究を継ぐ気などさらさらなかったし、アルジャナンも魔術師というよりは魔術の研究者だ。彼は古い魔術書を難なく読むことはできるが、エルファ家に伝わる魔術は使えない。

 魔神の召喚術に関しては、完全にクラレンスの代でお終いだ。

 古い神々だけでなく魔術も廃れる時代になったのだ、とメルローズは納得していた。

 ある魔術研究者は、天主教によって古き神々がほふられた、と論文に書き綴り学会で発表した。その数日後、天主教のふつによって悪魔憑きと断罪され密かに誅戮ちゅうさつされたという噂がある。

 いまやこれらいくつもの事情が重なり、魔術の研究の継続は難しい風潮となっていた。魔術学会でさえ、本土では天主教に隠れて秘密裏に開催されていると聞く。

 魔神召喚や魔神崇拝は、天主教からはもっとも邪悪な行為として扱われ、まれている。

 三人が暮らしているフロリオ島は、天主教の目も届かない世界の果てのような場所だ。だからこそ、クラレンスも心置きなく研究ができる。

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