第一章 3

(別に、すべての魔神が悪い性質を持っているってわけでもないと思うのだけれど)


 確かに、魔神や精霊の中には人を負の方向へと惑わす者もいるが、それは魔神や精霊の一面でしかない。魔神や精霊も、性格や性質には正と負の両局面があり、それぞれお互いに異なると言われている。

 現在クラレンスが召喚しようとしているのは、『カイロス』という名の時を操るとされる魔神だ。その実体はほとんど謎だが、エルファ家にはこのカイロスを召喚するための魔法陣が伝わっている。

 クラレンスは、エルファ家に伝わる魔法陣を片っ端から試し実際に召喚できる魔神がいないか調べているのだが、現時点ではどの魔神も彼の招きに応じたことはない。その原因がどこにあるのかも特定できていない。クラレンスの魔法陣が不完全なのか、魔神がもうこの世にはいないだけなのか、それすらも明らかにはなっていない。魔神たちが天主教によって殺されたのであれば、どれほどクラレンスが頑張って魔法陣を描いたとしても、応えてもらえることはない。

 一生をかけてでもすべての魔法陣を試さずにはいられないクラレンスに、メルローズは血を分けた娘として渋々ながら最後まで付き合う気でいた。


(いつも、ここまではうまくいくんだけどね)


 発動し始めた魔法陣を眺めながら、メルローズは嘆息した。

 魔力を持っているクラレンスが描く魔法陣は、彼が組み合わせた魔方式どおりに動き、大地の上から下、世界中の隅々まで魔神の探索を行っているはずだ。いま、この小屋を中心として、魔神カイロスを探すため、目に見えない網の目のような魔法陣がクラレンスの魔力が届く範囲の世界のありとあらゆる場所に広がり、魔神を捕らえようとしている。

 魔法陣の模様の中央が、盛り上がるようにしてわずかに床の上に浮き上がる。

 途端に、小屋の中の温度も高くなった。

 魔法陣が動いている間、クラレンスは自身の魔力を消費している。五十近くとなった肉体では、魔法陣を動かしているだけでもかなりの労力を要する。彼は両足を踏ん張っているが、なんとか立っているだけで精一杯の様子だ。額からは大粒の汗が滝のように流れており、目の中にまで流れ込んで視界をさえぎろうとしている。

 その横でアルジャナンは魔法陣を凝視したまま、口を一文字に引き結んで立っていた。

 彼にもわずかではあるが魔力が宿っている。ただ、魔神召喚の際に魔法陣の動力となる類のものではないらしく、影響を受けている素振りはない。後で記録を残すのが彼の仕事であるため、ひたすら熱心に魔法陣の動きを観察している。

 一応メルローズも魔法陣に視線を向けていた。

 床から浮かび上がった紋様はうねうねと波打つように不気味に動いている。

 かつて、この生き物のようにうごめく魔法陣から、どのようにして魔神たちが現れていたのかは謎だ。魔神は普段は地下に棲んでいるとされているため、召喚用魔法陣は地に描く。

 薄暗い小屋の中でぼんやりと白く発光した紋様は、しばらく律動し続けていたが、間もなく床から浮かび上がったまま、ぴたりと動きを止めた。

 魔神の探索が終わったのだ。

 やれやれ、とメルローズは胸を撫で下ろした。

 魔力を費やしたクラレンスの顔は土気色に染まっている。数秒後には意識を失い派手に倒れ込むに違いない。

 魔法陣が停止すると同時に、アルジャナンも師匠に視線を向けた。いつものことではあるが、クラレンスが直立不動のまま顔面から床に倒れるのを防ぐため、駆け寄ろうと準備をしている。


「今回も召喚は失敗だったようね、お父様」


 重々しい口調でメルローズは父が失敗したことを強調した。魔法陣が動いただけでは成功とは認めない、という彼女の意図が現れていた。


「さぁ、もう良いでしょう? 窓と扉を開けて換気するわよ」


 扉を開けると同時にメルローズは外へ出て行くつもりでいた。この臭いを全身にまとって台所へ戻るのはためいがあったが、今夜の夕食を抜くわけにはいかない。どうせ父親は一度意識不明に陥ったら明日の朝まで目覚めないだろうが、塗料精製を手伝い疲れているアルジャナンにはなにか栄養のある物を食べてもらう必要がある。といっても、夕食は豆のスープと川魚の揚げ物だ。


「お疲れ様、メル。窓を開けてくれてかまわないよ」


 全身汗だくになったアルジャナンが、さすがに暑さに耐えかねたのか、襟元のタイを緩めた、その瞬間。

 小屋の中央で停止していた魔法陣が、突然閃光を放った。


「え――?」


 目映い光が小屋内に満ち渡る。

 あまりの眩しさに耐えきれず、メルローズは瞼を強く閉じると同時に、片腕で目元を覆った。それでも視界が真っ白に塗り潰される。

 同時に、猛風が魔法陣から沸き上がった。

 がたがたと小屋の窓から屋根から戸板までもが、壊れそうなくらい激しい音を立てる。

 まるで竜巻のような強烈な風の渦に、メルローズは立っていられなくなった。悲鳴を上げる暇も無く、彼女の軽い身体はいとも容易く浮き上がり、吹き飛ばされる。そのまま壁板に全身が強く打ち付けられた。その衝撃で息が詰まりそうになる。

 痛いという感覚はなかったが、全身が鉄の塊と化したように重く、指一本も動かすことがかなわない。瞼にさえ力が入らず、目を開けることができなかった。

 ごうごうと激しく吹き荒ぶ風の音は、まだ耳元でうるさく響いていた。

 なのになぜか気が遠くなっていく。

 一体なにが起きたのかわからないまま、メルローズは意識を失った。

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