万象の書

紫藤市

第一章 1

 窓はよろいが固く閉じられ、ほんの一筋の陽光も差し込む隙間はない。

 薄暗く狭い木造小屋のなかの空気は、埃っぽくよどんでいる。

 木板を敷き詰めた床に、腰を屈めた壮年の男が一心不乱に筆を動かし、桶に入った白い塗料で複雑な紋様の円陣を大きく描いていた。

 彼のくすんだ亜麻色の髪には白髪が交じり、青白い肌には年相応の皺が刻まれている。顎まわりは無精髭が伸びており、傍目にはいささか見苦しい。生成りのシャツの袖は肘の辺りまで無造作に捲り上げている。飛び散った塗料で汚れることは気にしていないらしく、シャツや鳶色とびいろのズボンの裾には無数の白い染みが付いていた。充血した榛色はしばみいろの瞳だけが、らんらんと輝いている。

 その両脇から、手提げランプを掲げた青年と少女が、男の手元を照らす。男が筆を動かすたび、影がゆらゆらと動いた。

 塗料に混ぜられた樹脂の強烈な臭いが部屋に充満している。

 栗色の髪に鉛色の瞳の青年は唇をきつく結んで顔をしかめ、息を詰めて我慢していた。

 癖のある亜麻色の髪をひとつに結んだ少女は、片方の手で握ったハンカチで鼻と口を押さえ、不快げに涙をにじませ男に似た榛色の目を細める。

 壮年の男だけが、顔色ひとつ変えず、黙々と作業を続けていた。

 彼は紋様をそらんじているらしく、白いレース編みに似た模様を素早く描いていく。筆先が触れた部分から流れるように白く美しい精緻せいちな模様が、途切れることなく次々と床に広がっていく。閉じられた小屋の中で描かれていく芸術的な紋様は、ランプの灯りに照らされて白い塗料がきらきらと輝いていた。

 最後の線を描き終えると、壮年の男はゆっくりと上半身を起こし、大きなため息をひとつ吐いた。額に浮いた大粒の汗が、頬から首筋へと流れ落ちてゆく。すでに背中は大量の汗で濡れそぼっていたが気にならないらしく、彼は満足げに描き上がった模様を一瞥して榛色の目を輝かせた。

 少女が無言でタオルを差し出すと男は自分の全身に流れる汗に気づいたが、タオルは受け取らず、シャツの袖口を使い汗を拭った。袖に付いていた塗料が額にも付着する。

 むっと少女は唇をとがらせたが、強烈な異臭で満ちた室内で口を開く気になれなかったのか、黙ってタオルを引っ込めた。


「さぁ、完成したぞ。これが、魔神カイロスを召喚する魔法陣だ」


 男はしわがれた大声で二人に宣言し、誇らしげに胸を張った。

 床一面には魔法陣の白い繊細な模様が描かれている。そこにどのような意味が含まれているかを知る者は、この小屋の中では壮年の男ただひとりだった。


「アルジャナン! 待たせたな。すぐに召喚を始めよう」


 意気揚々と隣に立つ青年に呼びかけると、男は筆と塗料を入れた桶を部屋の隅に放り出した。空っぽになっていた桶は、壁にぶつかり乾いた音を立てる。

 少女は桶に目を遣り、眉間に皺を寄せた。

 この小屋の中はとにかく散らかっているので、床の魔法陣を描く部分以外には様々な物が無造作に転がっていた。塗料を作る鉱石、乳鉢、乳棒、古い書物、秤、分銅、ビーカー、フラスコなどが汚れたまま放置されている。中にはガラスの破片なども落ちており、ただでさえ薄暗い小屋だというのに、床に目を凝らして注意しながら歩いてもすぐ物につまずいてしまうような有様だ。


「はい! 先生」


 興奮気味に声を上擦らせたアルジャナン・ヒースは、その瞬間、肺いっぱいに塗料の異臭を吸い込んで激しく咳き込んだ。片手で口を押さえながら、手提げランプを天井から垂れ下がったかぎに引っかける。少女が手にしていた分も受け取ると、一緒に鉤に掛けた。

 ランプが頭上に吊されただけで、薄暗い室内がほんのり明るくなる。


「メル、お前は下がっていなさい」


 室内に漂う悪臭に閉口していたメルローズ・エルファは、ハンカチで口元を覆ったまま黙って頷くと、これ幸いとばかりに素早く扉の手前まで退しりぞく。

 魔法陣の前に並んで立つ魔術師である父クラレンスとその弟子アルジャナンの背中をぼんやりと眺めながら、いますぐにでも窓という窓を全開にして換気をしたい衝動をなんとか抑える。身体に害はないと言われている塗料だが、あまりの激臭にメルローズは失神寸前だった。

 魔神を召喚するための魔法陣を描く塗料の独特な臭いは、服や髪に付くと三日は落ちない厄介な代物だ。慣れるまでは激臭で重度の頭痛や目眩などの症状も引き起こす。いまではこの臭いにすっかり慣れてしまったメルローズだが、いくら慣れようが臭いが酷いことに代わりはない。

 エルファ家はフロリオ島の町外れの、隣家まで五百歩以上歩かなければならないへんな場所に家を構えている。昼夜を問わず魔術の実験を行っているため、近所迷惑にならないよう配慮しての距離だ。さすがに家の周りを囲む山査子さんざしの垣根の外までは、塗料の異臭も漏れていないはずだが、すでに三人とも嗅覚が麻痺しているため、少々の臭いには反応しなくなっており確かなことはわからない。


「では、始めるぞ」


 まるで絵描きのように塗料で汚れた服装のまま、クラレンスは魔法陣に向かって両手を上げた。その指先にも、白い塗料がべったりと付着している。

 アルジャナンが唾を飲み込み喉を上下させると同時に、背筋をぴんと伸ばす。洗いざらしのシャツの上に消し炭色の上着を羽織り、襟元には紺色のタイを蝶結びにしただけの格好だが、まだクラレンスに比べれば見られる格好だ。そのアルジャナンも、小屋の中の暑さのせいか額に無数の汗を浮かべている。一度だけ襟首に指を差し込んだが、タイを緩めることはしなかった。

 メルローズは、お気に入りの服に塗料の臭いがつくことだけを気にしていた。薄い黄緑色の生地に朱色の縞模様が入った生地の足首まで隠れるスカート丈になった日常着は、まだ作ったばかりなのだ。床を歩く際も気をつけなければ、山羊やぎ皮の編み上げ靴に乾ききっていない塗料が付いてしまう。さきほど突然クラレンスが、魔神を召喚するするから手伝うように、と台所に乗り込んできたものだから、着替える暇がなかった。そのまま離れの家屋であるこの実験室に引っ張ってこられたが、夕食の準備の方が重要な彼女にとって、これほど迷惑な話はない。

 どうせ今日も失敗するに決まっている、とメルローズは高を括っていた。

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