私の愛しい宝箱

沢田和早

私の愛しい宝箱

 とっくに平均寿命を超えてしまいました。

 辛い時も苦しい時も悲しい時もたくさんありました。

 それを乗り越えられたのはこの箱がいつも私に力と勇気を与えてくれたからです。

 この箱を手に入れたのは、確か社会人1年目の夏だったと思います。


 ――急募! 猫愛好家の方。資格年齢は問いません。


 街を歩いていたらこんなチラシを手渡されました。その頃、私は就職したばかりでひとり暮らしをしていました。


「猫愛好家か。条件は合うな」


 昔から動物が好きだったこともあり、わざわざペット可のアパートを探して猫を飼っていたのです。その場はポケットに入れて帰宅後しっかりと読んでみました。


 ――ある状態におかれた猫に対して飼い主がどのような反応をするか、それを観察させていただくのが目的です。

 飼い猫をご同伴ください。

 時間にして30分ほどで終了します。

 参加をご希望の方は下記までご連絡ください。

 参加者には謝礼として100万円お渡しします。


「ひゃ、100万円だって!」


 驚きました。猫と一緒に30分過ごすだけで年収の3分の1が手に入るというのですから。私はすぐ連絡を入れました。


「現在、問い合わせが殺到しておりまして抽選になります。詳細は追って連絡いたします」

 という返事でした。


「そりゃそうだよな100万だもん。おまみたいな雑種の三毛猫じゃあ、たぶん選ばれないだろうな」

「にゃーご」


 にゃん吉は不満そうに鳴きました。


 そうしてひと月ほどが経ち100万円のことなんかすっかり忘れていたある日、連絡が入ったのです。


「おめでとうございます。にゃん吉さんが選ばれました」


 驚きました。宝くじの3億円には遠く及びませんがとんでもない幸運に感謝したくなりました。


 当日、私はにゃん吉をペットゲージに入れて、とあるビルの一室に行きました。すでに会場には多くの人々が来ていました。用意された机と椅子を見ると参加者は100人ほどのようです。


「にゃん吉様ですね。こちらです」


 案内された椅子に座って私は待ちました。やがて時間となり、にこやかな紳士が現れると説明が始まりました。


「本日はお集まりいただきありがとうございます。さっそく始めさせていただきます。皆様にお配りしているのは樹脂製の箱です。その箱に皆様の飼い猫を入れてフタをしてください。そしてそのままの状態で10分間過ごしていただきたいのです。その間、飼い主様がどのような行動を取るか、それを観察させていただきます。以上が100万円の報酬の内容となります」


 意外でした。とても金額に見合うような作業内容とは思えません。質問が矢継ぎ早に飛びました。


「本当にそれだけで100万円もらえるのかね」

「本当にこれだけで差し上げます」

「10分間も箱に入れて窒息したりしないだろうね」

「酸素の消費量を計算して箱は設計されております。窒息の危険性はまったくありません。ただし急に暗闇になりますので猫が驚いて心臓に悪影響を及ぼす可能性もあるでしょう。最悪の場合、フタをする前にショック死という可能性もあります」

「そうなったら責任は取ってくれるのか」

「どの猫がどれほど暗闇を怖がるかは、こちらでは判断できません。もしご自分の猫が暗闇を嫌うとわかっているのであれば、参加を辞めてお帰りいただくのが賢明でしょう。その場合でも1万円お支払いいたします。あくまでも飼い主様の責任の元にご参加ください。こちらは参加を無理強いはいたしませんし責任も負いかねます」


 会場がざわめきました。見たところ何の変哲もない箱ですが何か仕掛けがあるような気もします。しかも猫がどうなっても責任を負わないというのですからさすがに迷わずにはいられません。


「私は辞めさせてもらう。100万円のためにウチの猫ちゃんを危険には晒せない」

「あたしも」

「オレも」


 10名ほどの方が参加を中止して部屋を出て行きました。私は迷った末参加することにしました。それほど当時の私にとって100万円という金額は魅力的だったのです。


「残った皆様は参加ということでよろしいですね。ではこの誓約書に署名押印をお願いします」

 全ての責任は飼い主に帰すという内容の書類でした。ここでも迷いましたが同意しました。


「暗闇の中で10分耐えるくらい、おまえなら朝飯前だよな」

「にゃーん!」


 ゲージから力強い声が聞こえました。勇気が出ました。


「はい。それでは始めさせていただきます。チャイムの音と同時に猫を箱に入れてフタをしてください」


 ほどなく澄んだ音色のチャイムが鳴り響きました。私はにゃん吉を箱に入れ、きっちりフタをしました。全員が作業を終えるのを確認した男はおもむろに話し始めました。


「それではこの10分間を利用して追加のお話をいたしましょう。この箱は『出会いと別れの箱』と呼ばれています。その名の通り、この箱に入ってしまった命は、生きて出会えるか、死んでお別れするか、どちらかの運命をたどるからです」

「な、なんだと!」


 誰かが叫びました。私も叫びたくなりました。「死んでお別れするか」なんて一言も聞いていません。


「どういう意味だ」

「箱の中は我々がいる空間とは別の極めて特殊な空間なのです。シレデんが空間と呼ばれています。その中に入った命は1/2の確率で生きているし1/2の確率で死んでいます。どちらの状態にも決められないし、どちらの状態も存在しているのです。しかし箱の外側から内部を観察した途端、状態は決定してしまいます。つまりフタを開けなければ中の猫は死んでもいるし生きてもいますが、10分後、フタを開けてしまうと状態はどちらかになるのです。生きて出会えるか、死んでお別れするか、のどちらかです。『出会いと別れの箱』という名称の意味がおわかりいただけましたか」

「じゃあ、フタを開けずに中の状態を確かめればいいんだろう」

「いえ、フタは関係ありません。外部から観察するだけで状態は決定するのですから。高感度集音マイクで心拍音を拾おうとしたり、核磁気共鳴非破壊検査で内部の様子を観察したりすると、その時点で状態は決定してしまいます。フタを開けるのと同じことです」

「しかし密閉されている箱の中では窒息してしまうし、エサも水もなければやはり死んでしまう」

「言ったはずです。箱の中はシレデんが空間だと。この空間は時間が止まっているのです。箱を開けて状態を確定しない限り、猫は永遠に1/2状態を保ち続けます。酸素も水も餌も必要ありません。そしてもしフタを開けて幸運にも『出会い』の状態だった場合は、これまでと同じく普通の猫として生きていけるのです」


 会場が静まり返りました。そんなことあるはずがない、そう思いました。私だけでなく誰もがそう思っているに違いありません。


「にゃん吉、おまえは大丈夫だよな」


 もちろん箱から返事はありません。樹脂製とは言っても遮音性は抜群のようです。


「はい、10分経ちました。箱を開けていただいて結構です。100万円を受け取ってお帰りください」

「きゃあー!」


 突然女性の悲鳴が聞こえてきました。妙齢のご婦人が猫を抱えて震えています。


「エリザベスちゃんが、あたしのエリザベスちゃんが、し、死んでる!」

「ああ、残念ながらあなたの猫の運命は『別れ』だったようですね。お気の毒です」

「訴えてやる。猫殺しの罪で告訴してやる」

「宣誓書は書きましたよね。全責任は飼い主にあると。実際、危険を感じて参加しなかった方が10名もいたのです。あなたは危険を感じたのに参加しました。落ち度があるのはこちらではなくあなたではないですか。それにこちらが猫を殺したとどのように立証するのですか。シレデんが空間など誰も信じないでしょうし猫の死因も不明です。箱に入れられてショック死したと鑑定されるのが関の山でしょう。そうなると箱に入れたあなたが猫を殺したことになります。ムダなことはせず謝礼の100万円でまた新しい猫でも買ってください」


 とにかくこの場は何もせずに帰宅しよう、そう思いました。謝礼の100万円を手にしても少しも嬉しくありませんでした。


 それから『出会いと別れの箱』との共同生活が始まりました。この中ににゃん吉がいる、でもその姿を見ることも聞くこともできない、それは辛いことには違いありませんでした。

 何度も箱を開けようとしました。でもその結果が『出会い』ではなく『別れ』だったとしたら、間違いなく絶望し開けたことを後悔するに決まっています。私はいつまでも経っても開けられませんでした。


 そうして10年が経ち、結婚し子どもができ、20年が経ち、子どもが独立した頃、私は悟ったのです、にゃん吉を箱に入れたのは良い選択だったのではないかと。

 飼い猫の寿命は15年ほど。もし普通に飼っていればにゃん吉はとっくに死んでいるでしょう。でも箱に入ったおかげでにゃん吉はまだ生きています。1/2の命という形ではありますが生きていることに変わりはありません。そしてもし運が良ければ箱を開けてその姿と声を聞くこともできるのです。


「にゃん吉、元気にしているかい。いつおまえの顔を見ようかな」


 私は毎日『出会いと別れの箱』に話し掛けるようになりました。どんなに辛くても悲しくても苦しくても、にゃん吉と再会できる喜びを思い浮かべると、そんなものは全て吹き飛んでしまいました。『出会いと別れの箱』はいつの間にか私の宝物になっていたのです。


「にゃん吉、今日ようやく墓ができたよ」


 平均寿命をとっくに超えた今、もう『出会いと別れの箱』を開けようとは思いません。と言って家族に託すわけにもいかないので、にゃん吉は私と一緒に墓に入れてもらうことにしました。私の骨の横にこの箱を納められるような特注の墓も用意してもらいました。


『出会いと別れの箱』の中にいる限りにゃん吉は永遠に1/2の状態で生きています。いつまでも私の隣で私を見守っていてほしい、それが今の私の唯一の望みなのです。


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