【短編】クズで一途な義理の姉を、引くほど甘やかして精神ブッ壊した
夏目くちびる
第1話
「……私、信じていたのに」
中学三年の時、初めて出来た恋人と望んでいない破局を迎えた。
彼女のケータイに、
今の俺なら、何とかなったかもしれない。でも、まだ何も知らなかったあの頃の俺は、離れた心を手繰り寄せる術を知らなかった。
だから、戻れなかった。
「別に、私は悪気無かったけど」
その犯人が、義姉の麻衣だった。
義姉は、冗談半分のつもりで友人たちと俺のケータイを勝手に触り、そして恋人へ浮気を仄めかすような言葉を送ったのだ。
人のやる事じゃない。素直に、そう思った。
そのへいで、彼女に注ぐはずだった愛は、行き場を失って俺の中に滞留した。
そして、いつしか純粋だった想いは淀み、醜く性質を変えた頃、俺は義姉に対して一つの決心をしていた。
この腐りきった愛を、全て注いでやろうと。義姉に、俺の青春を全て捧げて復習を果たそうと。
……初めに義姉へ与えたのは、なんてことのない言葉だった。
「お風呂、湧いてるよ」
とある雨の日、陸上部の活動から帰ってきた義姉はグッショリと濡れていた。
にわか雨だったし、彼女が傘を持っていかなかったのを覚えていたから、当然のことだと思った。
「ふぅん、気が利くじゃん」
何とも小憎たらしい口調で呟くと、彼女は礼も言わずに風呂へ入っていった。
思わず文句の一つでも口をついて出そうだったけど、俺は失笑を漏らしてバスタオルを脱衣場に置いてリビングへ戻った。
この頃は、俺はまだ冷静でいられなかった。
一つ尽くせば、一つムカつかされて。しかし、耐えなければ麻衣が幸せになってしまうと考えて、静かに唇を歪めるだけに留めていた。
毎度のストレスは、腹がはち切れるまで水を飲むことで発散していた。
我ながら意味が分からないが、義姉に本気で復讐しようと考えている時点で既に常人のそれではないのだから、理外の行動はむしろ望むところだ。
もう、他の事なんて考えられないくらい、義姉の事だけを考えていたから。
……俺の中で何かが変わり始めたのは、それから半年後の事だ。
「ご飯食べる?」
「うん」
「何食べたい?豚しゃぶサラダ?」
「うん、それでいい」
あの手この手を尽くすうちに、それまで知ろうとせず、そもそも知りたくなかった義姉の生活や好みが分かるようになってきた。
これは、逆説的に弱点をも知り得たいい機会だ。
どうやら、彼女は本気で陸上に取り組んでいて、それ以外のことはどうでもよく、というか何も出来なかったのだ。
勉強も、料理も、恋愛も。友達付き合いだって交流は狭くて、コミュ力もやや乏しくて、ファッションセンスもイマイチで、化粧をしてるのなんてほとんど見たことがない。
でも、陸上だけには真剣。他の事なんて何も出来ないけど、100メートルを走り抜ける為の鍛錬は怠らない。
それだけを生き甲斐にして、これまでずっと勝ち続けてきた。
義姉は、そんな女だった。
この一途さは、絶対に使える。
そんなことを考えたから、俺は家事をイチから学び、女を喜ばせる術を覚え、二つ上の彼女の為に勉学を蓄え、そして感情を隠すため、いつも笑うように心掛けた。
「ねぇ、お姉ちゃん暇だよ?」
その結果、義姉はいつの間にか一人称を『私』から『お姉ちゃん』に変えていた。高校2年の、夏の事だった。
「走ってくれば?」
「今日はおやすみの日。体を休ませろって、大学のコーチも言ってたから」
復讐を始めてから、約3年。
既に、義姉が俺に頼りきりで年上の意識がない事は分かっていた。
ならば、意識し始めたのは俺への
「じゃあ、マッサージでもしようか?脚、疲れてるんでしょ?」
「うん、お願い」
しなやかな脚を揉みながら、一体なぜ自らを『お姉ちゃん』と自称する必要があったのか。そんな、考えるまでもない事を考えて、すぐに結論を導いた。
「きもひぃ」
義姉は、俺に恋をした。だから、そう呼んだのだ。
「一年生なのにね〜、お姉ちゃんは部内の女の子の中で一番速いんだよ~」
「へぇ、凄いじゃん」
「今年のインカレはね、お姉ちゃんが勝つよ〜」
「応援しに行く」
「うん、ちゃんと見ててね〜」
そして、この日から俺に一日の活動の報告をするのが、義姉の中で日課になったようだった。
部屋にやってきては俺の枕に顔を埋めて、バレてないとでも思ってるのか、匂いを嗅ぎながらヘラヘラして、俺にマッサージを求めた。
それなのに、やっぱりワガママな所は少しも成長していなくて。ほんのちょっとでも強くすると、ムッと怒って。
「優しくして」
再び、俺に背中を向けるのだ。
「ごめん」
バカな女だと、そう思った。
「ダメ、今日はいつもより長くして」
俺は、この日までの経験によって、高校2年生にして何事にも動じない強靭なメンタルを手に入れていた。
驚きも、怖がりも、喜びも哀しみも。感受性豊かな青春時代を義姉への復讐に捧げたお陰で、全てが笑顔へ帰結するようになってしまったのだ。
「わかったよ」
だから、冷静だった。未だ燻らない怒りの炎すらも、抑え込んでいられた。今すぐ首を絞めて圧し折るだなんて、思い付きもしないくらいに。
……来る、インカレ当日。
脱兎の如くトラックを駆けた義姉だったが、結果は惜敗だった。
全国で2位の称号は相当な実力だろうが、子供の頃から陸上だけを信じ、1位を取り続けて来た義姉にとって、それは酷く悲しい結末であったらしい。
「うぅぅ……っ」
その日、義姉は俺の部屋へやってきて、一晩中泣いた。縋り付いて、大声で喚いて。友達でも、親でもなく。俺の前で。
「ひ……っ。ひ……っ。あ、あんなに、わたし……、ひ……っく……」
声が枯れても、涙は枯れず。しゃくり上げて、肩を震わせ、まるで止まない雨のように。ただ、ひたすらに俺の胸の中で泣いていた。
だから、一つだけ。
「よく、頑張ったね」
この言葉は、俺の本心だったのだろうか。それは分からない。だけど、ずっと黙っていた俺のこの一言で、義姉が壊れたのは事実だ。
「……っ」
頭を撫でると、それまでは弱くしがみついていただけの腕が、本気で壊れるんじゃないかってくらいに強く俺を抱き締めた。
軋む体を押し付けて、きっと崩れたプライドの代わりに、俺で体を支えたんだと思う。
失意の最後の依代に、俺を選んだ。その事実だけが、そこにあった。
……俺の決意の日に何をしたのかなんて、きっと義姉は覚えていない。
他の誰かだって、復讐の理由を『そんな事』だと笑うだろう。恨みなんてすっかり忘れて、義姉と幸せになればいいだなんてほざくのかもしれない。
でも、そうはならない。俺は、麻衣を支配する為だけに、この日まで積み上げて来たのだから。
復讐は、最後まで遂げてこそ復讐だ。
……大学生になって、俺は一人暮らしを始めた。
「今日も来たの?」
「う、うん。なんか、友達が急に予定入ったって言うから」
何の言い訳にもなってない事を言って、扉を開けた俺の部屋に入ってきた。スポーティな彼女らしくない、白いブラウスにスカートの姿だった。
義姉は、インカレでの敗北後、本気で競技へ取り組むことをやめていた。オリンピックへの挑戦もせず、陸上は遊びにして、完全にただの大学生へなるとの事だ。
全てをやりきって負けた事で、一つの区切りを付けたのかもしれない。思い切りのいい、彼女らしい。
「勉強疲れたよぉ」
言って、義姉は座る俺の肩に顎を乗せた。ほんの少しだけ汗の混じった、甘い香水の匂い。
義姉は、俺が家を出た3ヶ月で、髪を伸ばし、服装をガーリーに変えていた。
下手くそだけど、ほんのりと化粧をしている。友達に教えてもらいながら、少しずつ自分を改良しているんだと自慢していた。
しかし、毎度のこと義弟の部屋に遊びにくるのに、どうしてそんな見た目に気を使うのかを聞くと。
やっぱり、「友達に予定があって帰っちゃった」と言っている。
毎回、そう言い訳する。
ずっと付き合っているであろう友人たちが、遊ぶたびに急な用事で帰るだなんて。もしもそれが真実ならば、相手たちは本当に友人なのかと疑ってしまうけど。
まぁ、間違いなく嘘だ。
いつも、しっかり遊んでから、実家でなくここへ来ている。時間は決まって、21時過ぎ。外を出歩くには少し危ない、そんな時間に俺の部屋へ来る。
義姉から見た俺が、きっと「帰れ」と言わない、そんな時間を狙って免罪符としているのだ。
「えへへ」
そして、いつもは話である土産が、今日は物として手に握られていた。
早くツッコまれたくて、ソワソワしているのが分かる。だから、俺はすぐにそれを聞いてやった。
「そういえば、今日は誕生日だね」
「うん、プレゼントいっぱい貰ったよ」
そして、義姉はちゃぶ台の上に雑貨を広げ始めた。どうやら、自分も初めて見るらしい。全部で4つ、ラッピングされて中身は分からない。
「見てこれ、ペディキュアのシールだよ。かわいい」
「足の爪に貼るヤツ?」
「そっ、いっばい色ある」
どうやら、友人たちが義姉に洒落たグッズを買い与えたらしい。他のプレゼントは、ヘアオイル、香水、化粧水。
前に、義姉に連れられて渋谷へ行った時、似たようなモノを眺めていたのを覚えている。友人たちは、実によく彼女の趣味を把握しているらしい。
もしくは、友人たちが義姉の趣味を作ったのだろうか。どっちが先かは、分からない。
「お姉ちゃんねぇ、今日はお刺身食べたよ。あと、ポテトとか、卵焼きとか、お新香とか」
「へぇ、居酒屋でも行ったの?」
「うん、一杯だけお酒飲んでみた。おいしかった」
そのせいか、少し顔が赤いのは。
「じゃあ、シャワー浴びて寝れば?疲れてんでしょ」
「いいえ、お酒を買ってきたので飲むのです」
言いながら、自分の鞄から4本の500ミリ缶のチューハイを取り出した。普通、350ミリではないのだろうか。
というか、4本って。
「多くない?」
「一人2本ずつだから」
どうやら、未成年飲酒を推奨する悪い大人らしい。飲んだことが無いワケじゃないし、別にいいけど。
プルタブを開けて、一口。ビールって、やたら苦く感じるけど。どうして、大人はこれがおいしいと思うのか。俺には、よく分からない。
「えへへ」
「何をふにゃふにゃしてるのさ」
「幸せらから」
テーブルに缶を置いた音は、やたらと軽かった。どうやら、彼女は一度で飲み干してしまったらしい。
「なんで、一気飲みしたの?」
「ひてみたかったから」
言いながら、ベッドに寄りかかる俺の隣に座る。そわそわして、まるで何かを待っているようだ。
「……えっと、もう今日が2時間くらいしか残ってないよ?」
「あぁ、もうだいぶ遅いね」
「お姉ちゃん、誕生日が終わっちゃうよ?」
「そうだね」
素っ気なく返すと、義姉は瞬きをして俺を見て、寂しそうな顔を見せた。
「……お、終わっちゃうよ?」
「わかってるよ、しつこいな」
少し、突き放すような言い方で黙らせる。すると、さっきまでの笑顔から一変。三角座りに姿勢を直して、膝を抱え顔を埋めてしまった。
「なにイジケてんの?」
「……だって」
きっと、俺から何か貰えると思っていたのだろう。だが、俺はそんなものを用意なんてしていない。
でも、そんなの当然だろ?
ようやく、恨みを晴らし始める事が出来るのだから。
あの日の俺は、今日だけを見てお前に尽くし続ける事を決めたのだから。
「お姉ちゃんの誕生日って、知ってたよね?」
「うん」
「……やだ」
言って、義姉は俺の肩に頭を乗せた。
さて、彼女は「やだ」と言う前に、一体何を考えたのだろう。ずっと尽くして来た俺が、最も心を許している俺が、誕生日に
本当に、気持ちがいい。
「な、なんで?だって――」
「なんでって、何か欲しかったの?」
「そうじゃないけどさ」
「じゃあ、別にいいじゃん。欲しい物じゃないのに貰っても、嬉しくないでしょ」
「……そうじゃないもん」
わかってる。一番嬉しいのは、気持ちだ。
相手が、自分を好いてくれている。プレゼントとは、普段目に見えないその想いを形にしたアイテムなのだから。
極論、飴玉一個でも、本当に好きな相手から貰えたならば、それは掛け替えのない思い出となり得るのだ。互いの『好き』を共有する事、それ自体に価値があるのだ。
……お前は、俺からそんな相手を奪った。
忘れられるハズ、ないだろ。
「お姉ちゃん、何か悪い事しちゃった?」
「どうだろうね」
「……ごめんなさい」
「なにが?」
「分かんないよ、分かんないけど。……分かんなくて、ごめんなさい」
遅いよ。もう5年、早く言うべきだった。
「離れてよ、暑いから」
自分から動きはせず、静かに、命令するように言い放つ。すると、義姉は震え、その反動で反発するように頭を退けて、ぎこちなく俺の顔を見た。
「そ、そう。わ、わ、私ね?きょ、今日はね?えっと……」
目に、大粒の涙を浮かべながら。酒と涙でグチャグチャになった思考の最中、必死に言葉を手繰り寄せて。まるで、いつもの話をするように。
……一人称を、『私』に変えて。もう、最後のストッパーすら、自分で取り外して。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、やだよ。あなたに嫌われたら、わたし……」
俺のことを、『あなた』だなんて呼んだ。
そういえば、初めて会った時から一度も、『義弟』と言われたことがなかったって。
今、そんな事を思い出した。
「お願いだから、ね?私、ダメなの。あなたがいないと、もうダメなの」
しかし、ここで全てを突っ撥ねてはいけない。この言葉が、未来でも真実とは限らない。女は、男よりも遥かに気持ちのリセットが上手いことを、俺は知っている。
俺の父と、義姉の母との間には、再び寄り添うまでの時間に大きな差があったから。
「いや、いやだよぉ……」
だから、ここらが最初の頃合いだ。彼女の全てを奪うなら、少しずつ殺していかなければならない。
……俺は今から、嘘をつくよ。
「ごめんね、そんなに悲しむとは思わなかったんだ」
「お、お願いだから、き、き、嫌いに、ならないで……」
呼吸も忘れるくらい、義姉は取り乱して。俺が笑ったことにも気が付かず、床に手を付いて泣いていた。
こんな時は、彼女の目を見て、他に何も映らないように、強く優しくするのがいい。
「大丈夫、嫌いじゃないよ」
聞いて、義姉は更に泣いた。あれでも、かなり堪えていたらしい。安堵によって、堰き止められていた感情がボロボロと溢れている。
「じゃあ、お祝いのケーキを買いに行こう。まだ、時間は残ってるでしょ?それが、俺のプレゼント」
そして、義姉は何も言わずにコクコクと首を振って、涙を拭ってから弱く笑ったのだった。
裏切られる恐怖と、縋れば戻る安心感。植え付けられたどちらが、彼女にとって本当の毒なのか。そんな事を考えて、俺は彼女の手を引いた。
……それから、義姉は更に俺との距離を近くしていった。少しでも所在が分からなくなると、「どこにいるの?」と連絡を寄越し。人と居ると言うと、「女の子?」と飾りっ気のない言葉を伝えた。
俺は、その回答を必ず素直におこなって、裏切らないという事実を積み上げた。時にはその場に呼んで、安心させて。
しかし、時折、不和を生むような事件を仕掛けた。約束を破ったり、黙ってみたり、家に帰らなかったり。
焦燥を与え、解消する。そのマッチポンプを、俺はひたすらに繰り返した。
繰り返して、繰り返して、繰り返して繰り返して、繰り返し続けて。ずっと、何度も、何度でも。義姉がもう、考えることすら疲れるくらい。しかし、それでも離れられないように。
更に、4年間。淀んだ愛を、注ぎ続けた。
「……だいすき」
その結果、義姉は躁鬱のように感情を激しく持つようになった。
陸上へ抱いていた想いを俺に向けたせいで、仕事でのストレスを抱えるようになったせいで。それ以外の事が、一つも考えられなくなってしまったのだ。
もう、この言葉を聞くのは何度目だろう。俺は、一度も返事をしたことはない。
……部屋には、義姉の物が増えていった。違う色の歯ブラシ、湯呑、茶碗。思い出。
俺と同じ別の色の物を買ってきて、照れた素振りを見せる姿が鬱陶しい。
料理をしていると、味見したいと背後をうろつくのが鬱陶しい。
洗剤と柔軟剤を、間違えて恥ずかしがるのが鬱陶しい。
俺が風邪を引くと、仕事を休んでまでヘタクソな粥を作るのが鬱陶しい。
映画を見ていると、本気で泣いたり笑ったりするのが鬱陶しい。
ランニングに出ると、自分のスピードを誇らしげに披露するのが鬱陶しい。
毎晩、触れて欲しいと言い留まるのが鬱陶しい。
「だって、本当にずっと好きだったから」
鬱陶しい。鬱陶しいよ、本当に。
「そっか」
……だから、今日だ。
もう、社会人となって、義姉の青春は終わった。いつからでも始められる人生も、モラトリアムだけは取り返しがつかない。
成就も、失恋も。何一つ、経験してこなかった彼女の恋愛観は。自らで学ばず、ただ俺を見ていただけの価値観は。二度と、覆る事はない。
すべてを俺に依存した事の決着を、ここでつける。
「無理だよ、その気持ちには答えられない」
「私が、義姉だから?」
極めて、冷静だった。
あぁ、俺は今から、麻衣を壊すんだ。
「彼女がいるから」
その時、サッと義姉の顔が青ざめたのが分かった。ほんのり赤く、熱を帯びた感情を晒していた照れ顔が、文字通り真っ青に。
「……え?」
今のは、本当に声だったのだろうか。俺には、ガラスに亀裂が入った音のようの聞こえた。
「大学を卒業したら、結婚しようと思ってる」
「ま、まっ――」
「式を挙げる時が来たら、義姉さんにも招待状を送るよ」
言うと、彼女は糸の切れた操り人形のように、床に崩れ落ちた。
「う、うそ。うそ、だよ。それ、違う」
「違うって、何が?」
「違う、絶対に、ち、ち、違う。ま、まち、まちが……」
目の端から、ツーっと涙が流れた。きっと、まだ、意味を正しく理解していないのだろう。
「だって、すきだもん。わ、わたしのほうが、す、すきなのに。違うよ、それ。いっしょに、今日もご飯たべたのに」
「そりゃ、家族だからね」
「く、クリスマスも、一緒に、い、いっしょに、いた」
「まぁ、向こうの都合が悪かったからね」
口を開いて、発音すらままならない、下手くそな日本語らしき言葉を話す義姉。
その姿を、俺はどんな顔で見ているのだろう。
「な、なんで?ずっと、い、一緒にいるって。辛いときも、嬉しいとき、さも、いつも、一緒にいてくれ、くれたのに」
「少しずつ、部屋の物は片付けてね。引っ越して、彼女と暮らすから」
「わたし……。あ、あれ?」
ようやく、自分が泣いていることに気が付いたらしい。そのせいか、義姉は嗚咽を漏らし始め、遂にはゆっくり、ゆっくりと俺に手を伸ばして。
「い、いや。おね、お願い。お願い、だから、わたしを捨てないで」
「捨てるって、家族だろ?俺たち」
「ちが、ちがう。私は、けっこん、し、したい」
「何言ってるのさ、義姉さんはバカだね」
すると、彼女は膝をついたまま、俺の腰に縋り付いて、何度も横に首を振った。
縋り付いて、俺を見上げて。涙を拭いもせず、絶望で震える声を俺に向けて、言葉を否定するためだけに、首を何度も横に振って。
「すき――」
「ごめんね」
感情と言葉を、失った。
× × ×
「今日は、映画でも見ようか」
「……うん」
「最近、追加された面白いのがあったんだ」
「……うん」
「きっと、義姉さんも気にいるよ」
「……うん」
義姉は、精神を病んで会社を辞めた。今では、俺の部屋に籠もりきり、あの時に使っていた歯ブラシや茶碗を眺めて一日を過ごしている。
「プリン、買ってきたんだ。好きだろ?」
「……うん」
そんな彼女に、俺は今でもこうして尽くしている。毎日、風呂に入れて、髪を溶かして、食事をさせて。
まぁ、こうなってしまえば奉仕ではなく、介護だろう。決して、嫌ではないけれど。
「歯、磨いてあげるからおいで」
「……うん」
しかし、それって当然だ。俺は、全てを義姉に捧げたのだから、本当に彼女を作る時間なんてあるワケがない。時間を掛けて、本気で尽くしたからこそ、義姉は本気で壊れたのだ。
分かるだろ?中途半端にやったって、人間を壊せるワケがない。心は、脆いモノではないのだから。
「ほら、うがいして」
「……うん」
俺は彼女の体を綺麗に洗って、食事を済ませ、ソファに座って映画を見た。
「面白いね」
「……うん」
俺が家にいる間、義姉は絶対に俺を離さない。手や、服の袖や、どこかしらを繋ぎ止めようとする。
しかし、その力は決して強くはなくて。少し振り払えば解けてしまう、極めて微かな拘束だ。
これを離して、会社に行く時。義姉は、床に落ちて涙を流す。毎日、毎日。俺のいない、閉まった扉の向こうで泣き続け、疲れた頃に部屋の隅へ向かい、三角座りになって俯く。
その、繰り返し。他にやれることは、もう一つもないのだ。
「……すき」
「ありがとう」
義姉は、「うん」と「すき」の二言しか、言葉を話すことが出来ない。俺の言葉は全て肯定し、そして時々、思い出したかのように告白する。
その時も、表情は変わらない。ただ、握る力がほんの少し強くなるだけ。
「じゃあ、寝ようか」
「……うん」
俺は、クリアしたゲームの世界を、永遠に彷徨っている。動くことのない物語の最後だけを、永遠に味わっている。
仕事に行く瞬間、絶望する義姉を見て、まだ自分の愛が注ぎきれていないことを実感するのだ。
しかし、もしもこの愛が有限だったなら。俺はいつか、義姉を見捨てる日が来るのだろうか。この牢獄を捨てて、義姉と別の道を歩く日が来るのだろうか。
もしくは、義姉が正気に戻って、俺から離れることが出来るのだろうか。毎朝訪れる、絶望のループから抜け出して、幸せを求めることが出来るのだろうか。
それは、誰にも分からない事だった。
アーメン。
「おやすみ、義姉さん」
「……すき」
【短編】クズで一途な義理の姉を、引くほど甘やかして精神ブッ壊した 夏目くちびる @kuchiviru
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