第八章 英子

幻の白い影… 一

 気が付くと、暗いところで座っていた。

 一瞬、何がどうなったのかわからなかったが、先ずは両手を動かして見た。すぐに壁に当たった。そして、わかったことは、ここがトイレだと言うことだ。どうやら、トイレで寝てしまったようだ。

 英子は夜でもトイレは灯りを点けない。どうにも眩しいのだ。さらに、寝室から、トイレまでも灯りは付けない。こっちは街灯が差し込んで来るし、短い距離でしかない。とにかく、眩しいのが嫌であり、また、トイレの室内が暗くても、別に困らない。だが、まさか、便座に座ったまま、寝てしまうとは…。

 

 これが、歳をとると言うことなのか…。

 思えば「睦子むつこ」にからと言うもの、老いが加速されたような気がしてならない。

 いや、いや、英子と睦子の歳の差は四歳ほどでしかなく、その日まで、睦子は動作は幾分緩慢になっていたとは言え、普通に家事をこなしていた。そんな睦子が英子の前で崩れるように倒れた。驚いて駆け寄る英子だったが、咄嗟にある思いが横切った。


----もし、このまま、睦子が死んだら…。


 英子は頭をフル回転させ、すぐに真理子を呼び付け指示をした。

 このまま、睦子が死んだら、それは母の英子であると医師に言うのだ。つまり、これからは英子は睦子として生きる。そうすれば、睦子の遺族年金は継続される。また、そうしなければ、今の英子には収入がない。当然真理子は難色を示したが、それを実行しないのなら、真理子の家に居座ってやると凄んだ。

 無年金でわがままな英子に、居座られたらそれこそ大変である。当時はまだ岩本定男と結婚していた真理子だった。

 それら、その後の事を、真理子はうまくやってのけた。逆に口うるさくなったほどである。さすがの英子もすべてが終わるまでは大人しくしていた。

 

 そして、高良たからはこの世から消えた。


----さあ、これからは、高良睦子として生きていく。先ずは新しい睦子像。それはもちろん、昼は寝て、夜は別人と、期待に胸が膨らんだ。まだまだ、自分は化粧さえすれば、歳の十や二十若返ることは出来る。そして、夜な夜な街へと出かけ、今度こそ金を持った男を捕まえ、もっといい暮らしをするのだ。

 ついに、その日、いや、その夜はやって来た。


「ああ、今から寝るよ」


 と、正に出かける寸前に、真理子から電話がかかって来た。しめしめ、これで安心して出掛けられると言うものだ。




「あら、レイコちゃんじゃないの。今まで、何してたのよ」


 英子は、夜の店ではレイコと名乗っていた。久しぶりに入った店もママも変りはなかった。

 そう、変わったのは自分だけである。いやいや、ここでは何も変わらない。


「それがね。色々とあって…」

「どんな、色々」

「だから、色々よ」

「そうね。じゃ、色々を祝して、先ずは乾杯といきますか」

「さすが、ママ。そう来なくっちゃ!!」


 やはり、店で飲む酒の味は違う。その後も続けて2杯ほど飲んだ。


「まあ、落ち着いてからでいいけど、何があったのか色々教えてよ」

「いずれね…」


 誰が教えるものか。やがて、カウンターの隅で飲んでいた客が帰ると英子一人になった。


「最近、どうなの。店の方は」

「この通り。さっぱりよ。この先に新しい店が出来たものだから、みんなそっちの方へ行ってしまって」

「そのうち、戻って来るわよ。やっぱり、ママがいいって」

「いやぁ、男ってね、なんだかんだ言っても、女は若い方がいいのよ」

「まあ、ママも私も、まだ、若いじゃない」

「そう思ってるのは、自分たちだけよ。それより、ホント、レイコちゃんこそどうしてたの。まさか…」

「そう、そのまさかよ。ちょっと、入院してたの」


 と、あれこれ詮索されるよりはと、話に乗って置いた。


「どこが悪かったの」

「え、まあ…。ああ、鬼の霍乱てやつよ。ついでに、あちこち検査してもらってさ。後は異常なしよ」

「そう、良かったじゃない。もう、お互い若くないんだから。気を付けなきゃあねっ」


----ふん。あんたなんかと一緒にしないでよっ。


 久しぶりに来たのに、何か面白くない。あれから、客もやって来ない。ママとの会話も弾まない。


「あら、もう、帰るの」

「ええ、また来るわ」

----誰が来るもんか。さあ、別の店に行って飲み直そっ。


 やっぱり、夜の街はいい。自分には夜の街が似合う。

 さあ、今から仕切り直しと違う店に行き、バーテンダー相手に盛り上がり、いい気分になった。

 これからも、英子、いや、レイコの夜の店通いは続く…。


 さすがに、手持ちの金が減って来た。明日は銀行で降ろそうと思いながら歩いていた時だった。ヒールが何かに引っかかっらしく、あっという間もなく転んでしまった。


「大丈夫ですか」


 と、店のボーイが駆け寄って来てくれたが、英子は膝の痛みより、恥ずかしさでいっぱいだった。

 まさか、この自分が転んでしまうとは…。


「いえ、大丈夫です」

「あっ、無理はされませんように、今、救急車を呼びましたので」


 冗談じゃない。そんな大げさなと思ったが、別のボーイが電話をかけていた。英子も立ち上がろうとするが、思うように行かない。そうこうしているうちに救急車が到着し、否応なく病院に運ばれることとなった。

 結果は膝の皿が割れていた。しばらく入院となり、やがて、鬼の形相の 

真理子がやって来たが、英子は何ともない。


「いつまでもうるさいねえ。私ゃ、バレたって何てことないから。すべては娘がやったことです。この年寄りにそんな知識はありませんって言ってやるから」


 と、都合のいい時ただけになる英子だった。だが、これで真理子を怒らせてしまい、それから、真理子は口を利かなくなった。


「ちょいと、真理子ぉ。いつまで意地張ってんだよ」

「私がしゃべったら、うるさいんでしょ」


 真理子のだんまりは退院するまで続いた。もっとも、入院中もあまり見舞いに来なかった。退院したと言っても、英子は杖をつかなければ歩けない。そこで、介護ヘルパーに来てもらうことした。


 英子は今更に後悔した。


----あんなこと、言わなきゃあ良かった。


 店のママから「もしかして」と言われた時、調子に乗って入院していたと言った。それが、こんなにも早く入院してしまい、さらに、杖つきになってしまうとは…。














 











 







  





















 








 




 


 




 

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